2009年07月02日 00:17
私もしばらく気付かなかったのだが(というより、自分の書いたものなどあらためて熟読したりしない)、『現代詩手帖』七月号で珍しく活字になった私の作品「止血」(p.204)に、ちょっとした誤植があった。二行目、「夏岩」となっているのは、実は「頁岩」だったんですね。誤植の一つや二つ、私はそれほど神経質にはならないのだが(というのも、読者がまともならたいていの誤植は脳内で補正される。ただし現代詩等は例外。後述。)、この誤植は多少痛かった。この「頁」の一字を最後まで、しつこく引きずり回してできた作品だから。モチーフだと言っていい。しかも「頁岩」の語はこの最初にしか使っていないので、ここが「夏」となると最後の「頁」との対応もつかず、何が何だかわからないことになる(誤植がなくたって何が何だかわからないじゃないか、と言われれば、すみませんその通りです、と答えるしかないが)。
しかし別に怒っていたりするわけではない。それどころか私は、毎月投稿欄の入選作を手作業で入力し直しているに違いない人々(編集部の人か、印刷屋の人か)には、つくづく尊敬の念と、さらには「申し訳なさ」に近い感情すら抱いているのだ。投稿者諸氏は考えたことがあるだろうか。今の時代、よほど年寄りか偏屈な筆者ででもない限り、原稿はwordなり何なりのデータとして入稿されるだろう。それはめぐりめぐって印刷の段階まで使われ、つまり今時、紙の文字と見比べて一から「活字を拾う」などという作業は、普通はしなくてもいいはずだ。ところが投稿作品というのは、決してデータ入稿されない。つまり誰かが、紙とにらめっこしながら、いちいち自分の手で打ち込まなければならない、ということになる。詩は短いとはいっても、『手帖』の投稿欄など長編が多いし、十篇も集まればかなりの分量になる。きっと面倒だろうな、と想像してしまうのだ。
おまけにこの作業は、普通の文章を入力するのとはわけがちがう。作品にもよるが、現代詩の文面の多くは、いわゆる普通の本を作り慣れた編集者なり校正者なりの熟練の技術を、逐一コケにするようにできている。私自身が校正アルバイトで糊口をしのいでいるので、ついこういうことを考えてしまうのだが、だいたい校正者が目を留めて赤入れしなければならないようなことが、現代詩の領域では「技法」と称して市民権を得ている。?や!の後は一字アキ、とか、当然ながらカッコは閉じる、とか、そういう常識は一切通用しない。造語もあれば文法の無視もある。こういう文面が相手では、「誤植の方から目に飛び込んでくる」なんていう校正者の熟練もまるで役に立たない。誤植と思ったものが、意図的な詩的効果かもしれないわけだから。
それは読者に対しても同様で、誤植が誤植だと一見してわかる、というような表記に関する共通の基盤をあえて取り払ったところに、「現代詩」という狭小なサンクチュアリ(「聖域」ではなく「保護区」と訳したい)は成立している。私は今となっては自分が詩を書くこと、結局のところ詩のようなものしか書けないということを進んで引き受けたいと思っているが、その一方で、私の、またわれわれの書いているものの多くが、知識の獲得や、情報の伝達のために「普通の文章」を読んだり書いたりしている多くの人々にとって、やはりどこまでも「タワゴト」であるのだろうという感覚を忘れることができない。すると私の選択は、それを思った上で、このタワゴトのために一生を棒に振ってやろう、とあらためて決意することでしかない。
既存の規範から宙に浮いたところで、「物」としての言葉を相手に、ふざけているとしか思えない格好で闘っているのだ。またこのようにも言える。もとより遊びだが命懸けの遊びだと。誤植も不自然な言い回しも、自動的に補正して読んでもらえるような共通の了解の世界、「普通の言葉」の世界から遠ざかるにつれて、一語一語の重量はそれを使う書き手の肩にすべてかかってくる。だから、一字の誤植は致命的なのだ。何を語ろうと「誰もが知っていること」へと言い換えられてゆくやさしさ、それをこちらから振り払った時、私たちは、誤植をそっと直してくれる手も同時に失ってしまったのだから。
しかし別に怒っていたりするわけではない。それどころか私は、毎月投稿欄の入選作を手作業で入力し直しているに違いない人々(編集部の人か、印刷屋の人か)には、つくづく尊敬の念と、さらには「申し訳なさ」に近い感情すら抱いているのだ。投稿者諸氏は考えたことがあるだろうか。今の時代、よほど年寄りか偏屈な筆者ででもない限り、原稿はwordなり何なりのデータとして入稿されるだろう。それはめぐりめぐって印刷の段階まで使われ、つまり今時、紙の文字と見比べて一から「活字を拾う」などという作業は、普通はしなくてもいいはずだ。ところが投稿作品というのは、決してデータ入稿されない。つまり誰かが、紙とにらめっこしながら、いちいち自分の手で打ち込まなければならない、ということになる。詩は短いとはいっても、『手帖』の投稿欄など長編が多いし、十篇も集まればかなりの分量になる。きっと面倒だろうな、と想像してしまうのだ。
おまけにこの作業は、普通の文章を入力するのとはわけがちがう。作品にもよるが、現代詩の文面の多くは、いわゆる普通の本を作り慣れた編集者なり校正者なりの熟練の技術を、逐一コケにするようにできている。私自身が校正アルバイトで糊口をしのいでいるので、ついこういうことを考えてしまうのだが、だいたい校正者が目を留めて赤入れしなければならないようなことが、現代詩の領域では「技法」と称して市民権を得ている。?や!の後は一字アキ、とか、当然ながらカッコは閉じる、とか、そういう常識は一切通用しない。造語もあれば文法の無視もある。こういう文面が相手では、「誤植の方から目に飛び込んでくる」なんていう校正者の熟練もまるで役に立たない。誤植と思ったものが、意図的な詩的効果かもしれないわけだから。
それは読者に対しても同様で、誤植が誤植だと一見してわかる、というような表記に関する共通の基盤をあえて取り払ったところに、「現代詩」という狭小なサンクチュアリ(「聖域」ではなく「保護区」と訳したい)は成立している。私は今となっては自分が詩を書くこと、結局のところ詩のようなものしか書けないということを進んで引き受けたいと思っているが、その一方で、私の、またわれわれの書いているものの多くが、知識の獲得や、情報の伝達のために「普通の文章」を読んだり書いたりしている多くの人々にとって、やはりどこまでも「タワゴト」であるのだろうという感覚を忘れることができない。すると私の選択は、それを思った上で、このタワゴトのために一生を棒に振ってやろう、とあらためて決意することでしかない。
既存の規範から宙に浮いたところで、「物」としての言葉を相手に、ふざけているとしか思えない格好で闘っているのだ。またこのようにも言える。もとより遊びだが命懸けの遊びだと。誤植も不自然な言い回しも、自動的に補正して読んでもらえるような共通の了解の世界、「普通の言葉」の世界から遠ざかるにつれて、一語一語の重量はそれを使う書き手の肩にすべてかかってくる。だから、一字の誤植は致命的なのだ。何を語ろうと「誰もが知っていること」へと言い換えられてゆくやさしさ、それをこちらから振り払った時、私たちは、誤植をそっと直してくれる手も同時に失ってしまったのだから。




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