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借り物で


借り物でない言葉などないのだがせめて唾でもかけて返さう
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2013.06.16

 ネットの海の中で、こんな文章を拾った。

水槽の中に金魚を入れると、脳のあちこちをつつき始めます。そうすると、自我はいやでも、自我以外の何者かが存在していることに気がつきます。



 イメージが楽しくてこの発想は好きだが、でも、たしか脳味噌には感覚はなかったんじゃないのか? 現実的に言えば(いや、そもそも「水槽の中の脳」自体が非現実的な仮定の話なんだが)、水槽の中の脳は金魚につつかれても、それを感じることができないだろう。金魚の存在を眼で見て知ることもできないだろう。
 この文章はこの後、それでもだめならピラニアを放り込んで……と続くのだが、ピラニアに齧られたとしても、脳はそれを「ピラニアに齧られた」とは感じることができない、はずだ。「水槽の中の脳」というのはそういう話のはず。
 だから、この場合に気になるのは、ピラニアに齧られていく途中で脳はそのことをどういう世界の変容として経験するのだろう、ということの方だ。そして、発想は面白いけれど残念なのは、この仮定の話の中で語る限り、その脳は最後まで「自我以外の何者か」としての金魚にもピラニアにも直接出会うことはできないのだろう、ということなのだ。

2013.03.25

最近、晴れた日が怖い。空の色が街に青く映りこんで見えるような、異様に美しい晴れの日が時々あるのだが、現実感を引き剥がされるような気がする。束の間の感覚に過ぎないけれど、不思議な怖さだ。

「成熟」だの「年を取ればわかる」だのという話を私が信じないのは、とっくの昔に通り過ぎたはずの穽に、何度でも足を取られる、という感覚を日常的にもっているからだ。答えを出し尽くしたはずの問いに、またぞろ付き合わされる。ちゃんと殺してきたはずの魔物に、いきなり襟首をつかまれる。何度も乗り越えてきたはずの壁が、気がつくと目の前にある。
何かをきれいに「卒業」しては直線的に先へ進んで行く、という考え方になじむことができない。解きようのない問いをやりすごす方法、まぎらわす方法は、たしかに時と経験で豊かになるかもしれない。しかしそれは問いが消えることではない。歩いている地面の一枚下にある何か、あるいは、そこに何かのないことが不意に、足元を揺らがせることはある。

晴れた日に少々現実感が揺らいで妙な気分になっても、「生活」くらいしますよ。他の日と変わりもなく。そのくらいのことは私はできるようになっている(が、それもいつ突然できなくなるか、本当は確証がないのだが)。
しかし、問いが消えることはない。消えたと信じ込むことをもって「成長」や「成熟」と呼ぶなら、そんなことが本当に可能だと信じることができない。

2013.13.18

いろいろ書きたいことはたまってるんだが、ああ、手が動かねえ。

この作品のこととか、ちょっと書いておきたいと思いながらもう二年くらい経っている気がする。本当に、私が書きたいことはちょっとだけなのに。

2013.03.17.3

たとえば現代詩フォーラムのような、たくさんの作品がひしめいているところで、なかでも特に人気があったり目立っていたりするわけでもないもののなかから、自分にとって価値のある一篇、共振できる一人の書き手を探し出す。これはとても手間のかかることで、しかもすべてを見つくすことがほぼ不可能な以上、やればやるほど何か偶然に振り回されている気がしてくるものでもあるけれど、少し試してみるたびに、やっぱりやってみるべきだなと思わされる。
昨日は、この人の詩を読んでいた。

  untitled


部屋に入る
電気はつけない

ダンボールの影にくつわむし
ほうりっぱなしの服にすずむし
クロゼットの闇にこおろぎ
冷蔵庫でたまねぎが芽吹いた

ベランダには
線を抜かれた機械たち
明るすぎる空に
緑色になる機械たち

道の真ん中で
アスファルトを砕いてる人がいる
その音を聞きがなら
種がまかれ、ここはきっと森になるのだとおもう
(火事だとどこかで誰かがいう)


いい作品だと思う。一見素朴に書かれているけれど、言葉の並び方をよく見ると、必ずしも素朴ではない。
この人の他の作品もどこかそれぞれネジがずれている(それは偶然ではなく)感じがあって、いい。


  はる


本をたたんでは
ペンにキャップをつけた
はさみをひらいては 根元で指をぐりぐりとした
くつ下をつかんでは 投げた

たばこを吸っては
たばこを消す
息を吸っては
息を止める

お湯はもう沸いただろうか?

カーテンを買わなくてはまぶしい
風が吹けば悪魔が春の希望を数える



  なきがら


なきがらにそえる花をさがしつづけて
旅人は死んだ
私は旅人を摘んでなきがらにそえると
花をさがしにいった



この「なきがら」のような作品、私は非常に好き。言葉には、このくらい短くても、こういうことができる。

たくさんの作品の海を手さぐりする時には、作者を手がかりにして作品を見ることも、もうやめた方がいいのかもしれない。ある一篇に向き合うとき、その作者の全体像や付随情報をあまり意識せずにすむのは、ネットでの出会いのむしろいいところだと思っている。そしてその一篇の力が強ければ、それは十分に自立して読者の目に刻まれる。
たとえば、「いるかのすいとう」という現フォでも屈指の名作があるけれど、これからたどって作者「かいぞく」さんの他の作品を見てみると、必ずしもこういう感じの書き方をいつもする人ではないようなのですね。むしろ作者にとっては異例の書き方でできたものかもしれない。それを確かめる情報さえ、十分にはない。でも、そんなことはどうでもいいじゃないか、と思えるような一篇に出会えることは、現にこうしてある。

誰でも簡単に発表できると質が下がる、ということが言われたりする。そもそもその「質」とは何のことで、どのように作られてきたものなのか、ということを問わないとしても、一人でも多くの人が制度(そう、詩にも制度がある)の網の目にさえぎられず、作品を発表できるようになるのが悪いとは思えない。むしろ問われているのは、そういうものをただ埋もれるにまかせず、どんなに少数であれ、ただ一人であれ、その届くべき読者にまで運び継いでいけるようなネットワークを私たちは持ちえているか、ということの方だと思う。
 

プロフィール

 

岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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