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2013.03.17.3

たとえば現代詩フォーラムのような、たくさんの作品がひしめいているところで、なかでも特に人気があったり目立っていたりするわけでもないもののなかから、自分にとって価値のある一篇、共振できる一人の書き手を探し出す。これはとても手間のかかることで、しかもすべてを見つくすことがほぼ不可能な以上、やればやるほど何か偶然に振り回されている気がしてくるものでもあるけれど、少し試してみるたびに、やっぱりやってみるべきだなと思わされる。
昨日は、この人の詩を読んでいた。

  untitled


部屋に入る
電気はつけない

ダンボールの影にくつわむし
ほうりっぱなしの服にすずむし
クロゼットの闇にこおろぎ
冷蔵庫でたまねぎが芽吹いた

ベランダには
線を抜かれた機械たち
明るすぎる空に
緑色になる機械たち

道の真ん中で
アスファルトを砕いてる人がいる
その音を聞きがなら
種がまかれ、ここはきっと森になるのだとおもう
(火事だとどこかで誰かがいう)


いい作品だと思う。一見素朴に書かれているけれど、言葉の並び方をよく見ると、必ずしも素朴ではない。
この人の他の作品もどこかそれぞれネジがずれている(それは偶然ではなく)感じがあって、いい。


  はる


本をたたんでは
ペンにキャップをつけた
はさみをひらいては 根元で指をぐりぐりとした
くつ下をつかんでは 投げた

たばこを吸っては
たばこを消す
息を吸っては
息を止める

お湯はもう沸いただろうか?

カーテンを買わなくてはまぶしい
風が吹けば悪魔が春の希望を数える



  なきがら


なきがらにそえる花をさがしつづけて
旅人は死んだ
私は旅人を摘んでなきがらにそえると
花をさがしにいった



この「なきがら」のような作品、私は非常に好き。言葉には、このくらい短くても、こういうことができる。

たくさんの作品の海を手さぐりする時には、作者を手がかりにして作品を見ることも、もうやめた方がいいのかもしれない。ある一篇に向き合うとき、その作者の全体像や付随情報をあまり意識せずにすむのは、ネットでの出会いのむしろいいところだと思っている。そしてその一篇の力が強ければ、それは十分に自立して読者の目に刻まれる。
たとえば、「いるかのすいとう」という現フォでも屈指の名作があるけれど、これからたどって作者「かいぞく」さんの他の作品を見てみると、必ずしもこういう感じの書き方をいつもする人ではないようなのですね。むしろ作者にとっては異例の書き方でできたものかもしれない。それを確かめる情報さえ、十分にはない。でも、そんなことはどうでもいいじゃないか、と思えるような一篇に出会えることは、現にこうしてある。

誰でも簡単に発表できると質が下がる、ということが言われたりする。そもそもその「質」とは何のことで、どのように作られてきたものなのか、ということを問わないとしても、一人でも多くの人が制度(そう、詩にも制度がある)の網の目にさえぎられず、作品を発表できるようになるのが悪いとは思えない。むしろ問われているのは、そういうものをただ埋もれるにまかせず、どんなに少数であれ、ただ一人であれ、その届くべき読者にまで運び継いでいけるようなネットワークを私たちは持ちえているか、ということの方だと思う。
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2013.03.17.2

同人誌『ガーネット』69号の詩誌時評で、廿楽順治さんが私の個人誌『鋏と紐』の作品を紹介してくださっていた。限られた紙幅の中でずいぶん字数をついやしてもらっていて、なんだか申し訳ない。ありがとうございます。

で、「改行屋」と名乗るほどの廿楽さんが改行のことについて書かれているのだが、私が四行×四行でぶったぎって書いているものについては、むしろ、改行のしかたなんかあまり考えていなかったなあと思った。考えずにすむように枠を先に用意しておく、という書き方なので。ただ、用意した上で、その枠にきれいに収めようとはしない、ということは多少意識しているかもしれない。形式の区切りと内容の区切りは一致しなくていい。むしろそれがずれる時の独特の面白さというのがあって、私はそこがかなり好きなのだ。これは短歌の句またがりなんかが時として無性に魅力的にみえる、というのと同じ感覚だろう。まあそれも見慣れてしまうと「またか」という感じになってくるのだけど。

枠を置くのは、それさえ埋めればいい、と思えるからでもある。終りが見え、限りが見える。分割線もはじめから入れてある。このくらいの確かさには触れながらでないと、言葉を発するということのあまりの空虚さに、耐えられないような気がすることも多い。

2013.03.17

久しぶりにPULL.さんの作品をたどって見ていた。やっぱり好きだな私は。


 「 悲しみはない。 」


また見知らぬ誰かのために、
泣いた。
依頼主に、
何があったのかは、
知らない。
遺影と目を合わせても、
何も感じない。
泣き屋が流す涙に、
変わりがあってはならない。
それがどんなに、
悲しい死であろうともだ。

涙は、
この胸の蛇口を開けば、
いくらでも出る。
あたしは、
あたしたち泣き屋は、
そう定められ、
出来ている。



こちらより→ http://blog.livedoor.jp/pepull/archives/51073041.html
こちらからも→ http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=753

シンプルだけれど、切られた金属の「バリ」のようなものが言葉使いの端々に感じられる作品。また、そういう作品を一貫して書き続けているように見える書き手。
「それがどんなに、/悲しい死であろうともだ」がとてもよく効いている。
 

プロフィール

 

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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