スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

事実は小説より

 梁石日の『闇の子供たち』(2002)を読んでみた。さすがに読ませる小説で、ほとんど一気に読めた。子供の描き方なんかも、漠然と危惧していたほどはべたついていない。内面描写が最小限にとどめられているところがいいのだろう。結末も、特に驚愕したり感動したり、ということは私はなかったが、なるほど、こう締めるのか、と納得はできた。

 しかし、こういう内容をこういう書き方で小説にする場合、作家の想像力で付け加えることのできるものがせいぜいセックス描写の細部くらいでしかない、という索漠とした事実を、逆に見せつけられたような気もする。他の部分は、つまるところ、現実の枝葉を刈り込み、その骨格が見えやすいように整える作業の産物なのだ。もちろんそれは小説の、フィクションの正当な仕事であり、それを的確に果たしている作家の手腕に不満はない。だが、そもそもの問題として、圧倒的なのは素材である現実の方であり、想像ではないのである。
 そして、それなら、別に小説である必要はない、圧倒的に「小説より奇」である事実の、なるべく正確な記録と報告の方がいい、とも言えてしまう。

 稲垣三千穂『少女買春をなくしたい―タイ北部NGOの「小さな」挑戦』(1996)という本をちょうど平行して読んでいたのだが、だいたい同じような内容が書かれていて、こっちはノンフィクションである。この本、タイトルのつけ方にセンスがなさすぎて、これでは非常に限られた人しか手に取らないだろうと思うのだが(まして、図書館の「同和・人権」コーナーに置かれていたりすれば・・・)、開いてみると意外なほど素人臭くない、こなれた文章だった。そして繰り返すが、こっちはノンフィクションなのである。つまり、梁石日が「音羽恵子」という登場人物を造型し、かれらを動かしながらフィクションとしての俯瞰図を描こうとしたのに対し、これは現実の「音羽恵子」がその立場から、自分の経験の記録として、同じ状況を本にしてしまった、というのに近い。
 で、私にはどうも、つきつめると、こっちの方が面白く思えるのだ。もちろん小説的な面白さは小説として書かれたものの方にあるだろう。だが、語られる現実が圧倒的なものであるほど、当事者の言葉はフィクションの射程をやすやすと超えてゆく。そして、「音羽恵子」の立場からの語りですらそうなのだとすれば、『闇の子供たち』の中でも一貫して自らを語らず、描かれる対象としてのみあった「子供たち」が、いつか言葉を持ち、自らの解釈によって状況を語り始めた時、はたして何が起こるのだろうか。それはあるいは、梁石日や稲垣三千穂や、つまりは「見る者」の眼差しがほとんど無意識に前提としているものを端から、晴れやかな裏切りの暴力性でもって、破壊してくれるものかもしれないのである。
 

Comment

 
 






(編集・削除用)


管理者にだけ表示を許可

 

Trackback

 
 
http://tsurishinobu.blog92.fc2.com/tb.php/314-ed0f63eb
 

プロフィール

 

岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

カテゴリ

 
 

検索フォーム

 

 
 
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。