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「救命ボート」のトリック

医療倫理等の教科書等では誰かを生かすためには誰かが死なねばならないような状況がしばしば想定され、それについて学生たちが「ディスカッション」することになったりする。だが、そんな状況は実際には多くあるわけでなく、あってもなくすことができる。そのなかで例外的に存在するのが臓器移植の場面であり、だから論じられることにもなる。(中略)それ以外にしばしば出てくるのは救命ボートの例なのだが、これは極限的で例外的な状況であり、他から助けがこないというその状況そのものは受け入れるしかないという設定になっている。だが、多くの場合には、ボートの大きさを大きくしたり別のボートをもってくることは可能であり、それをしないことこそが「倫理」に反している。そしてこんな当たり前のことに気がつかないようにその教科書ができているとすれば、それはまったく教育的でなく、有害な図書より有害である。(立岩真也『良い死』、p.253. 強調は引用者。)



 こういうことは私もよく考える。いわゆる極限状況については、まず何よりも、つくらないに越したことはないのだということ。極限状況においてどうするか、という想定の話よりも、そういう状況をつくらないためにどうするか、そちらの方に知恵を使うべきなのだということ。そしてさらに言えば、思考実験のための設定が独り歩きし、極限状況でも何でもないはずの場面にまで安易に応用されてしまう、そのことの危険がある。本来は野戦病院という状況に結びついていたはずの「トリアージ」といった言葉が、一般的な社会問題を語る際に転用される、それが有害なのだ。現実の一般社会は決して野戦病院ではないし、そもそも野戦病院などというものは、存在自体が「「倫理」に反している」ものだろう。そこを問わせないトリックが、こうした極限状況に依拠する思考の中にはある。
 倫理学や社会思想に限らず、文学も、考えてみると、極限状況的設定が昔から好きだ。そしてそこにおいて現れるものに、なにか「人間の本質」があるかのように語ることが好きだ。しかし本当にそうだろうか。特殊な極限状況において現れる人間の一面は、やはり特殊な一面なのだ、と考えてはいけないのだろうか。そしてそれが醜悪な一面なのであれば、そういう一面を露呈せずにすむような条件をいかに整え、いかに守ってゆくか、そちらをまず考えるべきではないのだろうか。
 私自身、極限状況的なものに想像力を刺激される傾向は大いに持っている。拷問を受けたらどうするか、殺人を強制されたらどうするか、こういった問いを立て、具体的な想像とともに考えてみることに、今でも惹きつけられるところはある。
 だがその一方で、本当はそういう状況の発生自体をまず批判すべきなのだ、とそのたびに自分に思い出させることにしている。拷問されたら自分はどうするか、という問いと、なぜ拷問ということが起こるのか、という問いは、同じ事象をめぐっていても、全く回路の異なる問いだ。そして、前者の問いに淫するあまり後者の問いへの回路を見失う、そのことの危うさの方を、今では強く感じることが多い。
 

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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