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「死ぬ権利」と「生きる権利」

『良い死』から、もう少し。
 

 なぜ私は私のことを決めることができるか。自分で決めることを公理のようなものと考えないのであれば、なぜ自分は自分のことを決めることができるかが問題になる。そのことについて第1節に述べた。その理由の一つは、本人がその本人の利益をよく知る人であり、そして経験する人であるから大切にするだろうというものである。その人にとってよいことをその人がわかるから、その人が決めるのがよい。その方がその者にとって得であるということである。
 しかし死を前もって私が決めるとき、そのような私が生きていることは、現在の私にとって否定的なことである。もちろん、このようには言わず、そうなっても生きているのはその時の自分にとっても不幸だから、などと言いもするだろう。しかし、それは今そのように想像しているのであり、そしてその想像は確かでない。とくに意識を失った場合にはその者に(定義上)苦痛はない。もし実際にそこで起こっていることが言われている通りのことなのであれば、つまりまったく感覚がなくて意識がないという状態なのであれば、当然、その人自身には快苦もない。その人は、そうなってしまった状態を生きている人の最善の利益によって決めていると言えない。
 その人はむしろ、決定の時点において、その時点での私が、将来想像されるような私になることが耐えられないのである。「事前」に決めようとしているその今の自分にとってよいことをしているのであり、その時にそうなっているその私にとって有利なことをしているのではないだろう。それはその時の私にとっての利益ではない。私は認知症になった。それは次第に重くなった。その時の私には死にたい理由はない。生きたいと思っているかもしれない。ただそれだけ思っているかもしれない。何も思っていないかもしれない。
 事前に決める私と、その時の私のどちらを優先するのか。この問いに、簡単に、当然にそれはその時の私だろうとすれば、そこで言うべきことは終わる。その手前にいる私の決定は、変成し今の私とは別の存在としてその時を生きている私にとって、よい決定であるとは言えない。その時の私のあり方を否定しているからこそ、そうなったら死のうとしているのである。とすれば代理人として振舞っていないと考える方が当然である。だから、認められない。言うべきことはここまでとなる。
 それに対して、あくまでも「正常」な時の決定が優先されるべきだという主張はある。だからこそ、正常を好む多くの人々によって事前指示が積極的に肯定されるのでもある。しかしこれはおかしい。一つにそれは、第1節3で述べたことだが、自己決定に対する誤解である。自分のことがわかって自分で決めることはよいことである。しかしそのことは、自分がわかり自分を決めることが相対的によくできる人の方がそうでない人よりも上位にいることを意味しない。(pp.113-114.)


 「私」の同一性とは何か、とりわけ近代的な「自己」の意志や責任の根拠をどう考えるのか、といった問題は、抽象的に論じられることもいくらでもあるだろうが、こういう具体的な問題にからんで語られる時が、やはり私には面白い。ある人が認知症になる前に、「認知症になったら殺してくれ」と意思表示をした。実際に認知症になり、当人はそのことに気づいていない。あるいは、気づいていてもそのうち忘れてしまう。「殺してくれ」と書いたこともおそらく忘れている。そしてその状態で、特に死にたいというそぶりを見せていないその人を、その人の過去の意思表示に従って殺すことを認めるべきどうか。
 認めるべきではない、という方向で立岩真也は思考を重ねていくのだが、このあたりに関しては、私は彼の文章に必ずしも素直にうなずくわけではない。認めてもいいのではないか、と考えている一面も、私の中にはある。また、これを認めないとした時の、「個人」の境界のゆらぎに、反射的に危険を感じる私もいる。「変成した私」を「私とは別の存在」と言ってしまった時、こういう「私」の破れ目につけこんでくる「私」の外の力があるのではないか。ようやく獲得した「私」の自律性を、また体よく奪われてしまうのではないか。
 立岩真也の思考に時々反論しながら向き合うのは、私の中の「近代主義者」としての部分だ。しかも、これは私自身はっきりと自覚しているが、この「近代主義者」は「遅れてきた近代主義者」である分、いっそう強く、個人の独立性や自律性の価値への執着をもっている。自分の体のことさえ、長い間、私は決められなかった。だからこれからは、せめて私の体の処理だけでも、最後まで私に決めさせてほしい。そういう悲願に似た思いが「死の自己決定」へも私を駆る。

 

 今の私は未来の自らの利害の代理者として決めているのではないと言えば、その言い分はわからないではないと言ってもらえるかもしれない。しかし、それでも、すくなくとも私は――その未来の自分を他人だとまで言葉を拡張しなければ――他の人を害してはいない、その限りにおいて決めることは認められるはずだと言われるかもしれない。
 それに対してまず言われることは、死を認めるなら、死にたくない人も死んでしまうということである。実際、生死は自由とされることによって、死にたくないのに死ぬことになってしまう人たちがいる。しかし、各自の決定でよいと主張する人は、それを防ぐことができると言うかもしれない。本当に死にたい人だけが選ぶことができるようにすればよいと言う。そして、一方は明示的に希望しているのにかなえられず、真剣に死にたいのに(そのために他人に頼むしかないのに)死ねずに迷惑を被っているというのに、他方はぐずぐずしていて、意志が薄弱で、それで自らの意志と違うことを言ってしまうのだと、それはその人の問題だと主張する。そんな人たちには付き合っていられないと言う。どう考えるか。このことについては第2節3に述べた。うまく人間を分類し仕分ける方法はない。とすると、安楽死・尊厳死を自由として死なずにすんだ死人を出すか、自由にせず死ねない人間を残すかである。いずれかである時には生の方に加担するとなれば、死にたいあなたには迷惑をかけるが、後者を選び、一律に死ぬことを助けないとする。不本意だとは思うが、それは呑んでもらいたいということになる。(pp.115-116.)



 尊厳死・安楽死(としてなされる自殺幇助)を合法化することによって、特に強く死にたいとも思っていない者が有形・無形の圧力によって死を選ぶことを強いられる、そのリスクと、それを合法化しないことによって、特に強く死にたいと思っている者が他人の手を借りて死ぬことができないままである、そのデメリットとを秤にかけ、さてどうしましょうか、という議論である。こうして言葉にするとなんだか異様だが(「死にたいあなたには迷惑をかけるが、」なんて、読んでると笑えてくる)、現に、こういう対立なのだ。
 私は上に書いたように、立岩真也の思考に説得されないところもかなりあるのだが、この考え方と結論についてはだいたい同意している。死ななくていい者が死なされてしまうリスクの方を現状では重視すべきだ、ということ。立岩真也も何度も書いているように、現状のままでも、たいていの場合自殺は可能である。それは禁じられていないし、実質的に禁じることもできない。その中で時々、身体が動かないために自殺できなかったり、自殺する機会を逃したまま、「死にたい」と考えていた時の意識の状態を失ってしまったりする場合がある。その場合に、現状では他人に依頼して(依頼しておいて)殺してもらうことができない。その依頼に応じた者が罪に問われることになる。だから、そういう場合の「死ぬ自由」「死ぬ権利」を保障するために尊厳死・安楽死を合法化してほしい、という主張がされる。それに対して、そのメリットは上のようなリスクに対しては小さい、と判断するのだ。
 その背後には現状認識の問題もあるだろう。現実として、生きたい人間が生きられないことの方が多いのか、死にたい人間が死ねないことの方が多いのか。そう考えて、死なせない力よりも生きさせない力の方が今の社会では強く働いている、とみるのだ。立岩真也はさらに、刑に服する覚悟さえあれば自殺幇助も現状で可能である、とまで周到に言っている。現状では、「死ぬ権利」より「生きる権利」の方がしばしば保障されていない。
 だが、その上で、私はこう書いている間にも、「現状では」という留保をつけている。やはり無条件に同意してはいないようなのだ。針の先で切り刻むような立岩真也の思考に追い詰められながら、私の中の反論者もそれなりにしぶとい。そしてまたこいつがいるおかげで、立岩真也の文章につきあうことは私にとって、何かマゾヒスティックな快楽にさえ似てくることがある。
 

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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