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こういう〈近代〉の引き受け方

ポストモダンなる言葉は、ポストモダン思潮とともに、十年もすれば消えていくだろう。そのブローカーたちは別のものを売り出しにかかるだろう。だからそんなものにかかわってはいられない。しかし近代の超克論はそうではない。新しい海外思想と連動して、絶えずむしかえされる可能性があった。したがってこれに対しては自分の姿勢を定めておく必要があり、自分の考えをまとめることにより、竹内(引用者注:竹内芳郎。その著『ポスト=モダンと天皇教の現在』に触れてこの部分は書かれている。)への第二の異論とした。
 その時の私の理解では、近代の超克論には三つのパターンがあった。第一は、日本文化の独自性を主張して、その独自性のうちに近代の超克のきっかけをつかもうとする。ある者は天皇制のうちに、他の者はイエ制度や間柄主義のうちに、また別の者は民衆文化のうちにその手がかりを求めていた。
 第二は、西欧の近代思想それ自体のうちに近代の超克の契機を求める立場で、マルクス主義、マルクス主義的実存主義がその代表的な例だった。
 第三は、この二つを綜合する立場で、たとえば西欧の前衛思想であるシュールレアリスムやマルクス主義と、日本の土着文化とを結び付けようとした岡本太郎や花田清輝がその例としてあった。
 私自身はどうだったかと言うと、ある時期までは第二の考え方をしていた。それは、一方でヨーロッパの近代的価値を体現していると同時に、他方でその限界を意識し、内側からこれを乗り超えようとしているブルトンやサルトルから学んだ姿勢でもあった。
 しかし十年か十五年前から、私の考え方は変わっていた。ある意味では〈後退〉していた。それは、一九七〇年代末からの日本の文化風土にうんざりしていたからである。ジャポニスム、ジャポネスク、ジャポノロジー、伝統回帰、日本回帰、それが七〇年代末から八〇年代にかけての文化風土だった。そして、その風土の中から『文明としてのイエ社会』(中央公論社)が生まれ、この書が高く評価されていた。
 こうした風土を産み出したものは何か。一つには日本経済の繁栄と、そこから来る日本人のおごりがあった。しかしもう一つ、私の考えでは全共闘運動の敗北ということがあった。運動としての敗北もさることながら、思想的敗北、ないし思想的錯誤のツケを払っているということがあった。何がいけなかったのか。彼らは大学知識人の〈近代合理主義〉なるものを敵視し、これを激しく批判した。彼らは彼らなりに〈近代〉を超えようとしていたのだろう。しかし、大学の組織や教員が、〈近代合理主義〉によって動いているという見方がそもそも錯誤であり、私自身、当初はこうした錯誤にとらわれていた。しかし、これはとんだ買い被りだった。批判すべきは、大学の中の封建制であり、右へならえの集団的同調主義、竹内の言う天皇制だったのだ。
 たとえば、東大法学部の教授会には確固たる〈席次〉があり、座るべき座席の順番が決まっていたという。もしこれが事実であるとすれば、丸山真男や坂本義和のうちにも天皇制が巣食っていたということである。それを討たずして、〈近代合理主義〉批判は的外れということになる。そしてこれを討つには、単なる合理主義、〈近代〉で十分だったのである。
 二〇〇四年六月、私は最近当事者の一人から聞いたあるエピソードのことを考えている。一九六七年十一月、アメリカの空母イントレピッド号から四人の水兵が脱走した際に、彼らをかくまったベ平連は、四人の意見表明の場面を撮影しておいた。この席には小田実や日高六郎も同席している。ところが、これは小田実から聞いた話だが同じく同席を求められた丸山真男は「自分は国家公務員だから」という理由で、その誘いを断ったという。脱走行為に賛成できないという理由からではなく、〈公〉という立場の名においてである。〈公〉と〈私〉のあいだに一線を引き、〈私〉の情や価値観はひとまず置いて、〈公〉の義務感ないし法を上位に置いたのだ。それは、〈近代合理主義〉によるものだろうか。かつての私ならそう考えたかもしれない。しかし、今の私はそうではない。それは近代的価値(個人の良心)への裏切りであると考える。〈私〉の価値観をひとまず置いたところからは、かつての水俣病に見られた内部告発も、今日の偽装牛肉事件に見られる内部告発も、決して起こりえなかっただろう。
 全共闘運動の錯誤に戻るなら、彼らは一方で論理に固執しながら、他方でしばしば情念や感情に依拠した。感情に訴えることも情念を根拠にすることも私は肯定する。そもそも、近代的価値の一つと言える自我の解放にしても、感性や情念に依拠するところから誕生したのだ。しかし、この日本の風土において、合理主義や個人主義をすっ飛ばして感性や情念にのみ依拠することは、〈共同体〉への回帰につながることも否定しえない。七〇年代にやくざ映画と演歌が隆盛期を迎えたのは偶然ではない、と私は考えていた。
 以上が、〈近代の超克〉論における私の〈後退〉の主観的理由だった。しかし、理論的な理由がないわけではなかった。まず、〈近代〉〈近代的〉という言葉の使い方で、近代的競争原理、近代的平等性、近代的覇権意志といった用法にみられるように、〈近代的〉という言葉を竹内が常にマイナス価値で用いることに賛成できなかった。日本語で〈近代〉〈近代的価値〉とされているものはさまざまな現象の複合物であって、一つ一つの要素に分けて検討する必要があるのではないか。工業化、ナショナリズム、民主主義、個人主義、人権思想、科学主義、人間中心主義等々、ほかにもあるだろう。そして、どの国においても、これらの諸要素が均等に実現され発展しているわけではない。そんな社会は現実には存在せず、この不均衡がそれぞれの社会にゆがみを引き起こしているのであって、これを考慮に入れず、すべてひっくるめて〈近代的〉とし、〈近代文明〉を絶対悪のように批判するのは不当である……。私はそんなふうに考えていた。
 そうだとすると、この日本社会で乗り越えてゆくべきは〈近代〉ではなく〈近代以前〉であり、とりわけ竹内の言う〈天皇教〉だった。たとえば〈いじめ〉ははたして〈近代的競争原理〉が産み出したものだろうか。私には、集団的同調主義が産み出したもの、と考える方がずっとわかりやすかった。といったことから私は、この日本で近代の超克を語ることが無意味である、という結論に達し、こういう立場に徹しようと心に決めていたのである。それに思想の土着化と言うが、それは図式を描いて実現することではまったくなく、一人一人が輸入思想を生活の中におろしていく以外の道があろうとは思われなかった。その場合、私には〈近代〉だけが重要だったのである。



 海老坂武『祖国より一人の友を』(2007年、pp.315-319)より。何度も書いているが、私はこの人の文章が好きなのである。小食の上に気に入ったら同じ物ばかり食いたがる癖が私にはあって、この本なども何度読み直してきたかわからない。
 ただ、この部分に関しては、そういう個人的な好みを超えて、一つの〈近代〉の引き受け方の例として耳を傾けるべきところがあると思っている。知識の豊富な人が読めば、細かい点で「それは違う」と言いたいところも出てくるのだろう。しかし、大枠として、こういう〈近代〉の捉え方はあってよく、それなりの説得力を備えている、と私には思えた。特に共感できたのは、〈近代以前〉の批判の必要がはっきりと意識されている点だ。人によっては、今さら〈近代以前〉や〈封建制〉との闘いを語る必然性が理解しがたいかもしれない。これにはおそらく、個々人の経験の内容と、それに対する感度の個人差が反映されるのだ。だが、ここで挙げられている丸山真男の振る舞いのようなものに〈天皇制〉を見て取る、そういう目で周囲を見回したなら、それが過去のものではないのは明らかなのではないか。天皇の存在そのものをはじめ、〈近代以前〉は日本社会の至る所に転がっていて、それを見れば見るほど、何がポストモダンだ、と毒づきたくなる心情は私にはわかりすぎるほどわかる。
 それは私の場合、「家庭」という〈近代〉が取り残した最大の領域の一つを自分の思考の対象として引きずってきたこと、そのことから来る必然でもある。家庭内での「妻」や「母」の労働(それが市場から排除された、つまり賃労働として支払われていない労働である、ということをフェミニズムが見抜いたわけだが)の形態は、前近代的な徒弟や奉公人のそれに近いところがある。つまり、労働を売るのではなく人格を売る、全人格的に使用者に依存し、その管理の下に置かれるという働き方なのだ。賃労働は一面では人間を疎外しただろうが、別の一面では、労働だけを切り売りする、つまり労働の場や使用者に全人格的な拘束を受けなくてもよい、という自由を労働者に与えた(実質的にそうでなかった場合は無数にあったとしても、原則として)。タイムカードを押して門から一歩出れば、後はどこで何をしようが文句は言われない。支払われた貨幣をどう使おうが勝手である。そういう自由だ。
 しかしたとえば、「主婦」という家内労働者はそうではない。主婦業が二十四時間年中無休である、ということはよく言われるが、それは労働時間が長いとか重労働であるということよりも(そのあたりは千差万別だろう)、時間で区切られず、時給いくら、月給いくらというように明確化されない、曖昧かつ全人格的な拘束である、ということを言っているのだろう。一番わかりやすい例を挙げれば、セックスの相手をすることは一つの労働でありうるが、それを家庭の外で行えば一回いくら、何分いくら、というように貨幣で支払われ、その時間外の行動まで制限されることはない。具体的には、他の時間に他の相手とセックスすることを禁じる権利は、買い手には生じない。しかしこれが家庭内となると、セックスという労働は一定の貨幣ではなく、同居の権利とか扶養関係の維持とかの現物支給的、前近代的な報酬によって支払われ、しかもそれによる制限は具体的な労働時間、労働行為の外にまで及ぶ。妻が夫の留守中に夫以外の人物とセックスしたことによって、夫がその同居の権利を剥奪できるとすれば、これは要するに、夫はそれによって妻の性的な行動の自由を、二十四時間、無制限に買い占めていた、ということになる。これはかなり安い買い物ではないだろうか。
 家事労働や家庭内の性労働は、全く支払われていないということが問題ではなく(「扶養」といった形では支払われているのだから)、あくまでも貨幣として、目に見える形、比較や交換が可能な形で支払われていないことが問題だと思うのだが、こういう前近代的な人間関係と労働の形態を〈近代〉は「家庭」という領域に封じ込め、同時に故意に温存してきた。それが〈近代〉の資本や国家にとって好都合であり、必要不可欠でさえあったからだ……というのは、もういろいろな本に書かれてきたことだろう。だから最終的には、そういう領域にひそかに依存することで成り立ってきた〈近代〉の方を根本的に批判しなければならなくなる。しかし、その領域の内部に身を置いて考え始めた私としては、出発点はまず、その自分の置かれている〈近代以前〉状況への疑問と不満だった。〈近代〉の側から、〈近代〉の建前に照らして、なんだこれは、話が違うじゃないか、ということだ。この出発点を忘れられない限り、ここで海老坂武が選んでいるような立場への共感も、私の中には残るだろう。

海老坂武の文章から少し離れてしまったが、続きはまたそのうちに。
 

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プロフィール

 

岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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