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繋がることの汚さ

 伊月りささんの詩が面白い。これとか、これとか。
 修辞がきっちり詰められていてうまい、要所要所のフレーズが強い、というようなことは読めばすぐわかるのでわざわざ言わないとして、私にとって面白いのは、繋がる、ということの捉え方、それに対する態度の取り方だ。他の作品を読んでも、人と人とが繋がる、ということ、要するに「愛」の問題をテーマの一つに据えて書かれているように見える。それも、どちらかというと、繋がりたい、という方向で語られていることが多い。そう読める。これだけだと、詩というジャンルはその手の作品を腐るほど量産してきたではないか、ということになるのだが、この人の作品が違うのは、その「繋がる」ということを全くといっていいほど美化していないところだ。「繋がりたい」という方向で詩を書こうとすれば「繋がる」ということは往々にして、熱っぽく潤んだ眼に映り込むものとなる。そこにかならずあるはずの暴力性、汚さ、さらには平凡さといったものは周辺化され、ぼかされてしまう。しかしこの人の作品では、むしろそれが中心にあり、それを直視しながら、なお、それでも、繋がりたい、というきわめて意志的な態度表明として語られることになるのだ。
 こういうところが気になってしまうのは、私自身が同様のテーマを、どちらかというと、繋がりたくない、という方向で意識的に書こうとしてきた(書こうとしている)、そういう個人的な事情のためでもある。繋がることの問題を認識した上で、だから、繋がればいいってものじゃない、とある時点で割り切ってしまったのが私だ。「愛」はそれほど、美しいものでも救いになるものでもない。それどころかそんなものがからむばかりに、うまくいくはずのものもいかなくなる、そういう状況はいくらでもある。そしてそれを語らずに無責任に「愛」を、繋がりを歌い上げるものの氾濫に対しては、そうではないものを意識的に対置していかなければならない……と私は現時点でも考えている。だが、伊月りさの語る「愛」は、その点、決して無責任ではないのだ。何ら美化されない、人間の生存に伴う汚れのようなものとしてある「愛」を、まさにそれゆえに、不可避のものとして引き受けようとする。「愛」を肯定的に語りつつこんなふうに甘さのない、乾いた認識に伴われた詩というのも、あまり見かけないような気がする。

わたしは、わたしのいのちが溺れていたなら
かならず助けにいくでしょう
時には海、時には肥え溜め、
容赦のない
自然、人ごみ、社会、あらゆる思想、
これは勇気ではない

わたしは失えないのです
わたしたちであるということを



 個人である、ということは私にとってはやはり重要なことで、その境界をないがしろにするものに対しては反射的に敵意をもつのだが、一方で、単純な個人主義には限界があること、それも非常に近くにあることをもちろん知らないわけではない。たとえば生む者と生まれる者、育てる者と育てられる者との関係は、決して、対等な個人と個人の関係としては始まらない。病む者とそれを支える者との関係も、そうでない場合とは少し違う個人の形、対等さの形を模索しなければならないだろう。そして社会というものは、人間が単純に個人でありうる領域よりもはるかに広く深く、こういう領域によって支えられているのだ。
 というような話にしてしまうと、せっかく詩を読んだ意味がないかもしれない。それはまた散文を相手にしながら考えることにして、とりあえず、良い詩だと思います、と書いておくことにしたい。
 

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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