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とりあえず、個人保障

こういうことを書き出すとまたきりがなくなってしまいそうだが、だから、一点に絞って。
家族制度関係で、こうなってほしいなあ、と私が思っていることは山ほどあるけれど、特にどれか一つ、しかも、全く実現しそうにないこともないようなもの、として挙げるなら、何といっても、個人保障。「扶養」という関係を家族から抜き取り、(家の外で)働いていない者に対しては収入を社会的に、一律に保障する、ということ。たとえば会社で働いている者1名、主に家事・育児をやっている者1名、子ども2名、という構成の家族があるとすると、この家事従事者と子ども2人のそれぞれに、少なくとも最低限の自立生活はできる程度の金額を支給する。そのかわりもちろん、会社で働いている残りの1名に「家族を養う」ほどの給料を渡してやる必要はない。これも、基本的には本人が生活できるだけのものでいいはずだ。こうやって、現在の家族が担っている経済的扶養という機能を完全に社会(この際「社会」=国家にならざるをえないのか、というのが大きな大きな問題としてはあるのだけれど、)の保障によって置き換える。

私は現状での「主婦」という存在をやはりあるべきではないものと思っているが、それは間違っても、「主婦」が働かずに得をしているからとか、誰もが家の外で働くべきだとか、夫婦の共稼ぎが理想なのだとか、ましてや、働いている(賃労働をしている)ことが自立の条件だとか、そういうことを思うからではない。そういう話になってしまうのであれば、「主婦」批判というのは最悪だろうと思う。私が最近よく考えるのは、むしろ、家事専業者というのはあっていいのではないか、ということだ。主に家の中で特定の数人のために家事や育児を行う、それは一つの職業としてあっていい。ただし、私がここで強調したいのは、その際の賃金は絶対に、その特定の個人に出させるな、ということだ。主婦業はあっていい。だが、その主婦業を安心してやれるだけの経済的保障は、旦那の財布にではなく、社会に求めろ、と言いたいのである。これを書きながら、赤木智弘の「主夫になりたいが、女は養ってくれない」という発言を思い出しているが、こう考えると、私が彼の発言の中で批判すべきだったのは、「養ってくれる」相手として相変わらず個人を想定している、というこの一点に尽きる。「主夫」になりたいのは別にかまわない。しかし、その「主夫」になるためには自分を「養ってくれる」ような配偶者を探さなければならない、という現状への疑問と批判がないことが問題なのだ。基本的な生活保障+家事・育児業務への報酬としてたとえば国から毎月二十五万が支払われ、経済的に自立しつつ(ということは配偶者をいつでも取り替えられる自由を保持しつつ)好きな主夫業に専念できるとしたら、その方がずっといいではないか。私があくまでも批判したいのは、現状の「主婦」がその労働への対価を個人の家内奴隷のような支払われ方、つまり「扶養」といった形でしか支払われていないこと、したがって、その特定の個人との関係が壊れると経済的基盤まで失いかねないこと、こういう点なのである。

私は「主婦」が楽をしているなどとは全く思わないし、「主婦」の利害と「働く女」の利害が対立する、などという話は本気で警戒しなければいけない分断工作の一種ではないかとすら思うが、一方で、「主婦」になることがきわめてリスキーな選択である、という認識は一貫して持っている。私は自分の選択としては、誰か個人の「扶養」に入るくらいなら生活保護を受けたい(そしてもちろん、生活保護を受けることは自立した生活を妨げるものではない。働いて稼ぐことが自立の条件、などという発想は、たとえば障害者解放思想の一端のその隅でもちらりと覗けば、根本から覆される)。個々の主婦に敵対する気はこれっぽっちもないが、そこらにいる特定の人物の財布に自分の経済的基盤を預けることがいかに危険か、そしてそういう危険へ多くの人間(とりわけ女)を誘導する制度がいかに不合理か、このあたりについてはやはり、明確な怒りをもって語りたくなるのである。
 

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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