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「甘えるな」

 どう見てもルサンチマンに支えられている、という感じの、そういう表現に接した時、人はしばしば、「甘えるな」と口にするらしい。私にはこの反応がよくわからなくて、そして、興味深いと思う。「甘えるな」? はたして「甘え」なのだろうか。消しようのないルサンチマンを抱えた人間が、それを誰にともなく、その必然の形として表現することは。
 と考えて、次のような小説の一節を思い出す。

 「ゴウマンダ!」
 「アマッタレルナ!」
 ほかでもないあなたの口から、正真正銘あなたの口から、このことばがとびだしたことに衝撃を受けて、わたしは問いかえす。
 「だれにアマッタレテルのですか? あなたになら、たったの一度くらいは、アマッタレてもいいと思うんだけど」
 答えは明確だ。
 「社会にアマッタレテルってこと!」


 白井愛『鶴』(1993年、れんが書房新社)、169頁より。
 私は細部を忘れていて、「だれにアマッタレテルのですか?」という反問だけが印象に残っていたのだけれど、今読み直すと、それに続けて、「あなたにならアマッタレてもいい」とこの人はここで言ってるんですね。だから、まあこの場合、「わたし」は「あなた」に甘えている、とは言っていいように思う。ただ、しかし、「社会にアマッタレテル」というのは違うだろうと思う。社会への違和感と敵意を、誰にも共感されない、侮蔑や冷笑の対象になるだけかもしれない、という危険を犯しつつあえて表現する時、その孤独と無力をあくまでも自分で負いつつ表現している時、その人ははたして、「社会に甘えている」のだろうか。
 その前のページをめくると、ちょうどこんな場面がある。

 「ルサンチマンは創造の原動力とはなりえない、と思うんだけどねえ…… あなたがこのあいだくれた『氷原の嬉遊曲』は……ルサンチマンに理屈つけてるみたいな気がする……」
 「もう、別れたい!」
 とうとつに、わたしは叫ぶ。
 そして、涙を流す。
 わたしに理がないこと、ムチャクチャなことは、わかっている。あなたは黙殺しなかったのだ。まれな誠実さをもって、愛をもって、率直に、批判を口にしてくれたのだ。
 あなたの指摘はたぶん正しいのだろう。
 でも、あなたがたの世界の価値がわたしにとってなんだというのか。
 いま、わたしに必要なのは、なにがどうまちがっていようが、生きようとするわたしの意志に歓呼する、おなじ、ムチャクチャな意志なのだ。石つぶてに立ちむかうかよわい邪鬼に涙する、おなじ、かよわい邪鬼なのだ。


 私としては、「社会」との対立を補うような形で要求される、こういう「わたし」と「あなた」の関係というものも、ちょっとやりきれないと感じるところはある。こういう関係については、「甘えている」という言葉を少しだけ、私も使いたくなるかもしれない。自分ではない、一人の他人への要求として、過剰だと思うからだ。
 だが、しかし、「社会に甘えている」とはやはり思えない。理のないルサンチマンに立てこもった個人など、社会は簡単に黙殺することができる。無視することができる。甘えようにも、かれらの言葉にいちいち耳を傾ける義務など、社会の側にはない。
 にもかかわらず、「甘えてる」「甘えるな」とかれらに対して口走る人間が、また一方で少なからずいるのだとしたら、それはなぜなのか。とても興味深いと思うのだ。
 

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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