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主「体」性

フリーターズフリーの栗田隆子さんが、twitterでこんなことを書いていた。

たいてい、あたしが社会の矛盾のようなものに気づく契機は体の調子がわるくなるところから、なんだよなあ。

恋愛すると体の調子が悪くなる人に恋愛支援する、といったら笑い話だろうが(いや、そういう人が今後出てくるかも、というか既にいるかも。自分を知りましょうとかいって)、労働して体の調子が悪くなる人に就労支援、というのはあまり笑い話にはならない。

笑い話にならない、というのは実際に行われてるだろうし、労働で体を悪くするのは、自分の認知がおかしいからだと思われてそうだから、あれ、恋愛も?

苦手であってもできることと、できないことの差って何かとおもうとき、そこで体の調子が悪くなるほどの苦痛があるかどうか、くらいしかわからない。わたしも、からだの苦痛かなければ恋愛をしないという選択にここまで安堵感を覚えるか、わからない。

わたし、仕事を選ぶときも、これでからだがうごくかどうか、でしか選べなくなってたけど。。

主体性ってことばがあるけど、体を主に考えてる人生だわ。



 すごくよくわかる。私の場合、おそらく栗田さんほど明快に体が弱くはないので、具体的な病気になってはじめて気づく、ということはあまりないのだが、しかし、何か重要な選択、決断をしなければならなかった時、最後に背中を突くものはほとんど身体的な危機感のようなものだった、という記憶はある。このままじゃ病気になる、体がもたない、という直感だ。それは別に、体を酷使する環境だから、というような単純な因果関係の話ではない。たとえば、教師を職にすることは絶対にできない、と思った時。「人にものを教える」という仕事が私には想像するだけで苦痛だったのだが、そういう選択肢を突きつけられた時、かなりはっきりと、「大量に薬でも飲まないとやってられなくなる」という予感が走った。頭で考えれば無理ではなかったし、無理にでもやればできたかもしれない。しかし、体が「否」を言ったのだ。
 「私の意志」というものの、その最も切実な部分を私が自覚するのは、何かが「できない」ということにおいてではないか、と私はよく考える。「やりたい」ではなく、「できない」。頭で、表面的な意志の部分でいかに「やりたい」と思い込もうとしても、体が拒む。やりたいのに、やらなければならないのに、できるはずなのに、体が動かない……というくやしさと挫折感の中で、しかし、私は何度か、私自身が否認してきた「私の意志」を知った。その意志はもちろん、理性的判断よりも深いところで「やりたくない」と言っていたのだし、さらによく聞けば、何か他のことを「やりたい」と叫んでいたりもしたのだ。

 しかしこんなふうに書いてはいても、「体の声に耳をすまそう」なんて言い回しには相当の嫌悪と反発を感じる人間でもあるのだが、私は。まあこのあたりは、ごちゃごちゃと考えてきた期間も長いだけに、一筋縄ではいかない。 

 ところで、私にとって栗田隆子さんの魅力というのは、何といっても、全然かっこよくない、というところだ(直接お会いしたことはないので、あくまでも文章や発言の印象で)。全然冴えない。カリスマ性、なんてものがない。で、私が思うには、こういう人が中心にいて、表に立ってくれる運動というのは、それだけでちょっと安心させてくれるところがある。逆に言うと、颯爽としたリーダーが率いている集団など、それだけで多少の不信と警戒をもって近づきたい。
 ベ平連の時代の個人ビラ撒きに始まり、以来いろいろとユニークな活動を展開されてきたアナキストの水田ふうさんという方がいる。私は一度だけお話を聞いたことがあるのだが、その時、「司会はヘタなほどええんや。」と言われたのが印象に残っている。集会では、司会は素人で、ヘタなほどいい。司会がとちる、司会が口ごもる、すると場がほころびて、同じようにうまく喋れない人が、発言してもいいかなと思える雰囲気になる。手際よく司会進行などされたら、そういう人たちは黙って聞くことしかできない。
 たいへんな知恵だな、と思って、忘れられないのだ。
 

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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