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幸せになってほしい、ということが

幸せになってほしい、ということが、幸せに見えるように振る舞ってほしい、ということと、しばしば混同されているのではないか。そしてそのことによって、他人の幸せ(というか、自由や自足)をむしろ侵害しているのではないか。

たとえば私だって、傍目には別に「幸せそう」に暮らしてはいないだろう。年収200万以下のフリーターで結婚もしていないし、恋人とかがいるわけでもないし、おまけに意味もなく滅入った気分でいる時がよくある。傍目にはたぶん、暗かったり寂しそうだったりする生活だ。
だが、私に言わせれば、少々給料が増えたとしても今より面倒な仕事をさせられたり、全く興味のない結婚や恋愛といった人間関係を求められたり、暗い気分でいる時にその暗さ自体まで否定されたりする方が、主観的にはよほど不幸だ。今の状態に特に不満はないし、親の家に住んでいた頃に比べれば、断然居心地がいい。
中でも、暗い気分でいる時には好きなだけ暗い顔をして、暗いことを考えていていい、というのは私の絶対に手離したくない自由のひとつだ。誰にも気がねなく、自分の中の暗さと向き合っていられる、そしてついでに、その表現を模索していられる、というのは。もし「幸せ」という言葉をあえて使うなら、こういう状態を指してひとまずは「幸せ」と私は呼びたい。そうして表現された暗い感情や思考はもちろん「幸せそう」なものにはならないだろうが、それを表現できる状態にあることが、私にとってはひとつの「幸せ」と思えるのだ。

幸せになってほしい、という言葉は、ともするとこういう「幸せ」を抑圧する。笑うことが単に嫌いな人にまで、笑ってほしい、と迫るのに似たところがある。それで作り笑いをさせられるとしたら、させられる方には不愉快がつのるだけだ。

「幸せ」というものを固定したイメージで捉えない、ということがまず必要なんだな。そして本人の意思と選択を、傍目にどうであっても、原則として否定しないこと。海老坂武は理想の死に方を「独居老人の孤死」と言っていて、私にもその発想はとてもよくわかるのだけれど、そういう人間に向かって「不幸だ」「寂しいだろう」といった言葉を投げつける幸福観こそが、他人の実際の「幸せ」を無神経に侵害している。
 

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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