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明日発送します

『鋏と紐』2号は明日発送します。

 詩集などいただいた方で、宛先のわかる方にはできるだけ送ってみることにした。少し迷った末、1号を送らなかった方には1号も同封してみた。
 迷った末、というのは、私は1号に載せている「A Mono/Dialogue」という作品を、あまり多くの人に読んでもらいたいとは思っていないからだ。生きている間に詩集に入れたりすることもまずしないだろうし、「読んでみたい」と特に言われたりしない限りは、こちらから押しつけて読ませるようなものでもないな、と思っているところがある。そう思いながらも、去年は何人かに押しつけて読ませてしまい、今年も同封した相手には押しつけることになってしまうのだが。押しつけられた方、迷惑だったら、本当に、読まなくていいです。
 押しつける気になれない、というのは、読まれても、わからない人にはたぶんわからないだろう、という確信めいたものが抜けないからでもある。わからない、というのは価値のことではなく(価値があるかどうかなどは私もわからない)、単純に理解の問題として、やはり、世代が違いすぎていたり、立場や経験が違いすぎていたりすると、相当理解しにくいことを私は言っているだろうと思う。しかもそれは、他人に理解せよと要求できるほどの、正当性のあることでもない。それも私自身がわかっている。ただ、これも確信めいたものがあるのだが、何らかの意味で私に近い経験をしたことのある人は、同意するかどうかは別として、私の言っていることをある程度理解するだろう。そういう人に、読んでほしいと思うべきなのかもしれない。しかし、誰がそういう人なのかは、こちらからはわからない。それに、さらに言うなら、私は実はそういう人にも、あまり読んでほしいとは思っていないようなのだ。あっさり言ってしまえば、私にとって作品は、特に「A Mono/Dialogue」のような作品は、書いた時点でその役目を終えている。一度は気のすむように言っておきたかった、というだけだ。相手など目の前の壁でいい。その後で誰にどう聞かれるかはもう、ほとんどどうでもいいのだ。

 『鋏と紐』は今回も紙で、手作業で切ったり貼ったり綴じたりして作った。こういうことをしていると誤解されそうだけれど、私は「紙の本」に特にこだわりはない。詩の発表なんて、わざわざ紙に印刷する必要の最も乏しいものの一つかもしれない。紙の詩集など作らない、web上にまとめておけばそれでいい、と考える人の発想はとてもよくわかるし、共感もできる。実際、紙の本にするよりその方がはるかに多くの人に読んでもらえる、というのも事実だと思う。これまではそうでなかったとしても、確実にそうなる、そうなっているだろう。
 だから、単に作品を発表したい、多くの人に読んでもらいたい、ということならweb上で十分だし、むしろその方がずっといいのだ。それなのになぜわざわざ紙の冊子など作ってみたか、というと、まあ私の場合は、紙の本というものもそれはそれであっていいだろう、と考えていることと、その上自分の手で手芸的にいろいろ作るのは興味があれば割とおもしろい、ということ、そして、最後に、あまり多くの人に読んでほしいとは思っていない、ということのせいだ。不特定多数に読まれなくてもいい、むしろ、あまり読んでほしくない、そういう作品もある。たとえば「A Mono/Dialogue」をweb上に置くことは、やはり私にはちょっと考えにくい。突き詰めれば、誰にも読まれなくてもいい。ただ、そういうものをあえて「読んでみたい」と言ってくれる人がいるならば、その人には手渡してみてもいい。嫌いなら、本当に、読まなくていいですよ、と言いながら。こういう感じで作品を届けるには、紙の本の非効率がちょうどいい。

 根来祐さんという映像作家がいる。私といろいろな点で関心が近く、ブログの文章なども読ませてもらっているのだが、この人は、自分のいないところで作品の上映をしない。もちろん、DVDにして売ったりすることもしない、という。自分で作品をもって出かけ、上映して、そこに来た人たちと話す。そういう発表のしかたをしているようだ。私が見に行った時もそうだった。
 この人が映像を撮り始めた頃のことを、自分で書いている文章がある。ブログのプロフィールにリンクのある記事だ。文章はやや硬くて、事実を淡々と並べた感じなのだが、期待して入ったマスコミの世界に適応できずに辞め、摂食障害や鬱や恋愛依存で先が見えなくなっていた時、どうせ死ぬなら、と傍にあったビデオカメラのrecボタンを押し、自分の姿や身の周りのものを撮り始めたのだという。やがて摂食障害者の自助グループにかかわるようになり、そういう映像を集めて仲間に見せると、好評だった。「わかるわかる」と受け入れられた。それでひとまず死ぬ気が失せた、という。
 芸術、という言葉をあえて使った上で、その中の何を守るか、と考える時、私の中に最後に残るのはこういうふうに生まれてくる作品の可能性だ。それだけでは作品にはならない、芸術にはならない、というのはいくらでも言える。他人に言われなくても、意識的に何かを作り始めてしまえば、自分の中にそういう声を聞かないことの方が難しい。そしてそれは、確かにそれなりの理のある声でもある。
 だが、最後に何を守るか、という時、私はすでに価値を認められた一切の芸術、一切の既成の作品よりも、今それを生むことによって生き延びようとしている、ここにいる卑小な人間の方を選ぶ。根来祐の指がカメラのrecボタンへ伸びた時の、その衝動の方を。すべての古典が灰になったとしても、これがある限り芸術は死なないだろう。逆に、これが圧し殺される時、ただ眺めるだけの過去の傑作の山が人間にとって何だというのか。
 その映像の最も初期のものは、自分のために自分が撮ったもので、編集して作品にしたこともない、と根来祐は言っている。おそらくそうなのだろう。他人には見苦しいだけの病人の生活記録、と予想することもできる。だがしかし、最後に守らなければならないのはそれなのだ、ともう一度言ってみる。そんなものは芸術ではありえない、という声に抗して、芸術のために最後に守らなければならないものは、おそらく、それなのだ。
 

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2011.11.25 Fri 09:27管理人のみ閲覧できます

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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