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<普遍>を信じるな

こちら↓のツイッターでの発言。
http://twitter.com/#!/tummygrrl

で、引き続いて現代思想「危機の大学」の金森論文を読む。これまた読後のむにゃむにゃ感が半端ない。というか、接合しそうなところで最後にすれ違ってしまうこれはどうしてなのだろう。あたしの大学の人間/研究者としての出来の悪さはおいといてw出来の良し悪しの問題だけじゃない気がする。

公共性の危機において、大学は〈国家と社会からの乖離〉を特徴とすべきで、それは「そのまま《大学》の希望と存在理由になる」はずだという点も、「専門知よりもはるかに茫然としてとりとめがなく、直接的効用性も見えにくい教養知」の重視からある種の普遍知へという流れも、同意できるのだけれど。

しかしそこから何故「〈普遍〉なるものがもつ暴力」への批判、そのような〈普遍性〉の切り崩しの作業に対して、そんな事はもういいから〈普遍知〉を再構築する努力が必要だ、という話になるのか。

そしてそれが何故、「女性、貧民、人種的マイノリティ、性的マイノリティなど」がその〈普遍〉なるものから「意識せずにはじかれている」ことへの警鐘がもはやいらない事になり、それによって〈普遍の幻覚〉を若者に「一瞬でもいいから見せること」が重要だ、という形をとるのか。

現代思想『危機の大学』金森修「公共性の黄昏」:「確かに、この何十年か、教養知を最も涵養するはずの領域である〈人文知〉は[...]普遍とはいっても、女性、貧民、人種的マイノリティ、性的マイノリティなどは、意識せずに弾かれているのではないか、と人文知は何度も警鐘を鳴らしてきた。[...]しかしそんなことをしている内に、当の〈普遍性〉なるものがボロボロに解体し、或る日気がつけばその残骸しか残っていなかったというような風情になっているとはいえないだろうか。人文知が行ってきた切り崩しの作業が無意味だったとは思わない。だが、今日では、その切り崩しと政治的繊細化の過程を経た上で、いわばより成熟した〈普遍知〉の構築に向けた努力が開始されるべきではなかろうか。[...]それは制度的には、例えば《大学》の内部で優れた教養教育をし続けること[...]を意味している。[...]これから専門人になろうとする若者に、なんらかの形で〈普遍〉、ないしは〈普遍の仮想〉[...]〈普遍の幻覚〉を一瞬でもいいから見せること。それが蜃気楼でも幻覚でも、まるで触れないよりはいいと判断すること。おそらくはそれが大事なことなのだ。」(p.148)

この進み方には私は全く同意できない。少なくとも日本の大学のいったいどこで、そのような「切り崩しの作業」が〈普遍性なるもの〉をボロボロに解体し、その「過程を経た上で」次のステップに移りましょうと言えるような状態が起きているのだろうか。むしろ、「女性、貧民、人種的マイノリティ、性的マイノリティなど」を弾いてきた〈普遍〉を切り崩す作業がこれほど容易に用済みとされるのは、新たに構築されるはずの〈普遍〉や〈公共性〉がまさに従来通りの排除を含んだものであるからではないのか。それは誰のための〈人文知〉なのか。言い方をかえれば、それらの批判や切り崩しをあわただしく用済みとみなして構築された〈普遍知〉に触れて〈普遍の幻覚〉を見る「若者」とは誰か。そこで〈普遍の幻覚〉を見る事ができない人がいるならばそれは〈普遍〉ではないだろうし、その批判は〈普遍性〉の模索と共存できるはずではないのか。もし〈国家と社会からの乖離〉こそが大学の特徴でもあり「希望と存在理由」でもあるのだとしたら、むしろまさに大学こそがどこよりも先に〈普遍〉とされているものから「弾かれる」生に開かれるべきであり、そうでありうる可能性にこそ「希望と存在理由」を見いだすべきではないのか。



 そうだよ。まったくそうだ……と、手が震えてくるくらいの共感が湧くんだよね。自分でも少し驚いた。こういう考え方を知るようになったのは最近のことではないし、そのぶん、こういう発言自体への感受性は鈍っているはずなのだが、こんなふうに目の前に差し出された時、自分がまだこれほど震えるのか、ということに今驚いている。

 <普遍>を信じるな、というか、信じなくていいんだよ、ということこそ、(たぶんこの発言者と同じく)私もフェミニズムから叩き込まれたことの一つだ。それも、最も貴重な、どれだけ感謝しても足りない思考の支えとして教えられたものなのだ。<普遍>として語られてきたこと、語られていることの中に、たとえば女の経験、それを語りえた言葉はない。少なくとも十分にはない。だからそんなものは<普遍>ではないし、それを<普遍>として振りかざされたからといって、怯えなくていい、屈しなくていい。私が触れてきたフェミニズムの言葉の中には常にこの呼びかけがあって、それにどれだけ力づけられてきたか、と思う。既存の<普遍>をなぞるよりも、まずは<私>の経験を、<私>の感覚と思考とによって語りだしてゆくこと。そしてそのことによって、既存の<普遍>を問い返し、それは<普遍>ではない、と突きつけてゆくこと。そして、さらに、もし普遍なるものがあるのだとしても、それはそういう作業、現存の<普遍>の解体を繰り返す作業のうちにしかないのだということ。それを手離して現存の<普遍>を擁護することは、その<普遍>の名において行われている現在の抑圧や暴力の追認に他ならないということ。そういうことを、とても未熟な理解の仕方ではあっても、私は教えられてきたと思っている。また、それを選んで受け入れてきたと。
 だから、そこをなおざりにするようなことを言われると、私の中でははっきりと逆立つものがある。そしてそこのところで、この書き手と激しく共振できてしまう。その反応回路がまだ、こんなに強くあったか、と自分で驚くほどに。

 私は元の論文は読んでいないし、それについて具体的に何か言うつもりも、言える能力もないのだけれど。
 しかし、ちょっと見ただけで、ああこれは「役に立たない」と叩かれ続ける大学の<人文学>が、それに抗して存在意義を証明しようとしている、それはそれで弱者の懸命な自己主張なんだなあ、とはわかる。大学の中でその<人文学>を担うような立場にいれば、そういうことを言わないわけにもいかないんだろうなあ、ということもわかる。私は今のところ大学に無縁の人間なので、〈国家と社会からの乖離〉といった大学を聖域化するような発想にも、非常に疑問は感じつつ、どうせ他人事だし、という目を向けてしまうのではあるが。私から見れば、現実の大学なんてものは昔も今も<国家と社会から乖離>などしていたわけがないし、また乖離できるわけもない。考えるべきは、「乖離できない」ということを前提として、どこに、どっちに、どういうふうにくっつくのか、ということだけだろう。それは政治性を免れる学問などどこにもない、まして制度としての大学がそもそもその存在からして「国家」や「社会」を支える一大装置に他ならない、という当然の認識から出てくる当然の結論だ。万が一それを忘れているのなら、まずそこを何重にも確認してもらわなくては。文学部の教室で花を歌った古典詩を読むことは、政治的行為なんだよ。「教養」のどの小さな一片にも、「国家」も「社会」もしみとおっているんだよ。忘れたのか、そんなことも。
 上の引用からもう一度、満身の共感を込めて引用しよう。

「少なくとも日本の大学のいったいどこで、そのような「切り崩しの作業」が〈普遍性なるもの〉をボロボロに解体し、その「過程を経た上で」次のステップに移りましょうと言えるような状態が起きているのだろうか。」

 まったくだ。たとえ<普遍>への憧れが捨てがたいものだとしても、その追求の道はもう書いたように、既存の<普遍>の批判の中にしかない。<普遍>という観念を肯定的に語ることによって、真の<普遍>(があるとして、だが)に近づくことは決してないだろう。遠ざかることはあっても。
 だから幻覚でいい、ってことなのか、まさかね…と気分が暗くなってくるけれど、そういう人にこそ、踏みとどまってほしいな。<普遍>を求めずにいられないような真摯な精神の持ち主にこそ、幻影で満足するのではなく、<普遍>を騙るものへの絶えざる批判という形で、その追求を続けてほしい。もちろんそれは、大学の、<人文学>だけがやればいいことでも全くないのだけれど。
 

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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