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そもそも「遺族」という語が

いろいろなところで言及されている文章のようだが、読んでみてよかった。
森達也「「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書いた人に訊きたい」

私が特に重要だと思うのは、やはりこのあたりだ。これも、私に限らず、多くの人が思ったことだろうけれど。

ならばまずは、「死刑制度がある理由は被害者遺族のため」と言い切る人たちに訊きたい。

 もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのだろうか。

 死刑制度は被害者遺族のためにあるとするならば、そういうことになる。だって重罰を望む遺族がいないのだから。ならば親戚や知人が多くいる政治家の命は、友人も親戚もいないホームレスより尊いということになる。生涯を孤独に過ごして家族を持たなかった人の命は、血縁や友人が多くいる艶福家や社交家の命より軽く扱われてよいということになる。親に捨てられて身寄りがない子どもの命は、普通の子どもよりも価値がないということになる。
 つまり命の価値が、被害者の立場や状況によって変わる。ならばその瞬間に、近代司法の大原則である罪刑法定主義が崩壊する。だからこそ刑事司法は意識的に、被害者遺族の心情とは一定の距離を置いてきた(意味なく被害者の写真を法廷に持ち込むことを禁じていたわけではない)。



 この論点は、本当に、何度でも強調すべきだろう。「近代司法の大原則」を守れ、という方向に強調されるとそれは私には違和感があるが、普通に読めば、たぶんそうはならない。重点はもちろん、「命の価値が、被害者の立場や状況によって変わる」ことへの問題意識にある。
 後半の「当事者/非当事者」性の話もバランスが取れていて好感は持てたけれど、この指摘の鋭さに比べると、まあ平凡な意見。むしろ私には、この書き手もやはり使ってしまっている、というか、使わずにいられなくなってしまっている「遺族」という語そのものの方が気になる。
 まず一つは、「遺族」ったっていろいろいるだろうに、ということ。さまざまに違った事情で「遺族」と呼ばれる立場になった人間のそれぞれが、同じ一つの語でくくれるほど共通性のある感じ方や考え方をしているものかどうか、個別に見ていけば怪しいだろうと思うのだ。森達也もこの文章で、「自分の想像など遺族の思いには絶対に及ばない」と書きながら、一方で、「多くの遺族は、なぜ愛する人を守れなかったのかと自分をも責める。あのときに声さえかけていればと悔やみ続ける」「被害者遺族の抱く深い悲しみや寂寥、守ってやれなかったと自分を責める罪の意識や底知れない虚無」というように「遺族」を一般化しつつ代弁してしまっているところがある。「多くの」という限定がついていたり、「遺族感情」の見落とされやすい一面に注意を促している点で、当事者を盾に取って、と批判する気にはなれない。しかしそれでも、私は多少ひっかかる。「想像が及ばない」非当事者の立場に徹して語るのであれば、この程度の代弁すら余計なのではないか。「多くの遺族は・・・」と一般化するのではなく、具体的にそういうことを語っている「遺族」の発言を紹介して、同じ内容を示すこともできたはずだ。まあそれも、当事者の利用といえば利用になるのだけれど、私の中ではやはり違う。特定の誰かの発言を紹介して、「遺族」の中にはこう感じている人もいます、と示すのと、「多くの遺族」はこう感じている、と書いてしまうのとは違う。後者がもつかもしれない、「遺族」と呼ばれる人々へのステレオタイプ化の圧力を、私は警戒するのだ。
 「被害者遺族」を振りかざす死刑肯定論が侵しているのは、加害者にもあるはずの最低限の人権や、それを守るべき「法の原則」であると同時に、その一方的な想像と代弁から逸脱する個々の「被害者遺族」の存在でもある。たとえば、復讐を望まない、少なくとも加害者の死を望まない「遺族」も確実にいるだろう。そういう個々の思いや声を、ステレオタイプ化された「遺族感情」という語は排除し、無化してゆく。この文章の「非当事者は非当事者として語れ」という呼びかけも、まさにそういう状況に向けられているはずだが、しかしそこで「多くの被害者遺族は・・・」とふたたび書いてしまうのは、「遺族」を一般化、ステレオタイプ化する、という点では同じ危険を帯びている。こういうことを全くせずに文章を書くことは不可能と言っていいほど難しいのだけれど、それでも、意識できる限りは意識したいと私は思う。
 そして、そもそも、「遺族」という語について。これは森達也のこの文章とは少し離れた、私個人の年来のこだわりにかかわることだが、そもそも、「遺族」とは誰なのか。「遺族」と呼ばれるのは普通、「遺された親族」だ。「自分の身内が殺されても・・・」という例がすぐに持ち出されるように、「遺族」という語は血縁上の、かつ法的な親族関係を自動的に連想させるようにできている。恋人や友人知人もまた「遺された人々」ではないのかと思うが、しかし実際には、単に「友人」でしかない人物が、いかにその被害者個人と親密な関係を築いていたとしても、法的な親族と同等に「遺族」を名乗り、「遺族」として振る舞うことは難しいだろう。そこで私は訊きたくなるのだが、なぜ、そうしたいわゆる「遺族」だけが、そこまで特権的に被害者の死を悲しんだり憤ったり、さらには被害者の代理のように振る舞うことが許されるのか。なぜそこに疑問が挟まれないのだろう。一人の人間にとって最も親しかったり、遺志を託したいと思えたりする人物が、そういう直接の血縁者や法的な親族の中にいるとは限らない。その被害者の死を最も深く悲しむ人物も、その中にいるとは限らない。そう考えた時、自明のように使われる「遺族」という語が、そういう「遺族」とは呼ばれない、しかし被害者に近しい人々や、あるいは被害者本人に、いかに不条理な壁としてはたらくか、ということを少しは考えてみてもいいのではないだろうか。
 回りくどい書き方をしてしまっているが、これは私の中では、たとえば結婚制度への批判点とも多く重なる。法的な「妻」や「夫」には当然のように許されることが、そうではないばかりに許されない。いかにその相手と親しい関係にあっても、結婚という形を選べない、選ばないばかりに、許されないことがある。このことの不条理と、そこから排除される者への差別性を、私はは無視することができない。私自身はたしかに、結婚によって得られる特権自体にもそれほど欲求を感じないというところはある。その意味では自分の問題ではないのだが、しかし、たとえば同性婚を求める人にとって、その特権がいかに大きな魅力を持ちうるか、理解することはできる。実際、制度としての結婚には、それだけの過剰な特権が与えられているのだから。私の立場としては、その過剰な特権性の方を批判すべきであって、それをそのままにして特権的立場にもぐりこむことが正しい解決とは思わない。しかし、切実にそれを必要としている個々人に対して、「間違っているからやめろ」などと言う気にもなれない。これは「主婦」になりたがる人などにも同じように感じることだ。個々人を批判はできない。なぜなら、現にそういう道が魅力を持ってしまう状況があり、それを批判している私も、そうではない現実を今すぐ差し出してみせることはできないからだ。
 けれども、とその上でもう一度戻って、私は自分の立場として、「遺族」という語が嫌いだし、こういう語が疑問なく使われる現状が嫌いだ。「遺族」の特権性は、結婚よりもはるかに私にとって切実な問題でもある。「もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのだろうか」と上の引用の中で書かれているが、これを読んだ時、私の中のどこかが自分のこととして反応した。私は自分では法的な家族を作る気がないので、おそらく三十年も経てば、一親等だの二親等だのの親族は一人もいなくなる(と書いて少し調べてみたら、三親等だっていなくなりそうだ。こういう数え方も根拠がよくわからないのだが)。そうなって後に私が死んだ時、いくらかの代理的な役割を果たしてくれる人物をいわゆる「遺族」の中から探すことはできないだろう。しかしだからといって、人が完全に「天涯孤独」であるということもまた、実際にはあまりないはずなのだ。血縁がなくても、法的関係がなくても、その人が何らかのかかわりをもって生きた人はいるだろう。それが社会というものだ。私は自分自身では、血縁や戸籍や届出よりも、そういう関係の方に信頼を置きたいと思っている。森達也の言っていることとはずれてくるが(彼の言っているのは、本当に「天涯孤独」であっても、それで生命の価値が軽くなってはいけない、ということであって、それはその通りなのだけれど)、「遺族」がいるか、いないかということが問題になる時に、そもそもそういう区別を成立させてしまっているのが、「遺族」とよばれる特権的な集団の存在そのものではないか、と考えてみてもいいだろうと思う。それはそのまま、「家族」という集団に与えられている過剰な特権性を、生きている者どうしの間で問い直すことでもある。「家族」をもたない者が誰にも顧みられないなら、それは「家族」しか顧みようとしない多数者の問題でもあるのだ。
 ついでに、私が「大切な人を失って嘆き悲しむ遺族」というステレオタイプに疑問をもつのは、「遺族」が元「家族」のことであるなら、「家族」には単に親密であるだけではない、あるいは親密であるからこその、負の面もいくらでもある。そういうものが「遺族」になった途端にきれいに切り落とされる、そこにつきあいきれないものを感じるということもある。もちろん、個々の被害者遺族が悲しんでいないなどというのではない。ただ、その「遺族」のイメージが強調される時、そこにつきまとうのはやはり、判でおしたような「家族愛」の物語であったりする。私はそれにはついていけない。
 だいたい、現実に起きている殺人事件など、半分以上が親族間のものだ。報道で大きく取り上げられるのは無差別殺人のような事件が多いけれど、面識のない人物に殺されるより親や子や兄弟に殺される方が、確率としてははるかに高いだろう(そもそも殺人事件に遭遇する確率自体がどう考えても極端に低いが)。こういう資料を見るだけでもわかる(p.50「被疑者と被害者の関係別検挙件数」など参照)。「家族」ならひたすら無垢に愛し合っているもの、といった神話が、現実にある家族の問題、家族だからこそ起こりうる問題をしばしば覆い隠し、解決から遠ざけてきたことは言うまでもない。

 それからもう一つついでに、最後のこの部分も、いったい何度言わなければいけないのか、と思いながら書き手は書いたのだろうな、と思う。単なる事実の問題であって、繰り返し指摘され続けているはずなのに、故意に危機感をあおるような記述もまた繰り返されているようだ。

判決翌日、多くの識者やジャーナリストが、凶悪化と増加の一途をたどるこの国の少年事件に厳格な姿勢を示した判決などと述べた。これもまったく事実無根だ。少年事件は一般の殺人事件と並び、毎年のように戦後最少を更新している。この国の現在の治安状況は、ほぼ世界最高水準で良好だ。

 

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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