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「その実践光景」

 私は新聞をとっていないので、他人の家でたまたま目にしたのだが、この短文。

ドイツでヒトラー「わが闘争」注釈付き解禁へ。彼は政治宣伝は単純なスローガンにして繰り返し、最後の一人が思い浮かべるまで、と唱えた。今、北朝鮮にその実践光景が見える。(毎日新聞4月26日夕刊「近事片々」)



 一瞬頭が煮えそうになった。何なんだ、このねじれ方は。
 ドイツが「わが闘争」を禁書にしてきたのは(その当否はともかくとして)、自国のナショナリズムとそれによる過去の行為を過ちと認め、繰り返すまいと考えたからだろう?「自国の」それを反省したからだろう?
 だから、と説明しなければならないこと自体が腹立たしいけれど、「わが闘争」とドイツの関係を見て日本人が連想しなければならないのは、まず何よりも、日本のナショナリズムとそれによる過去の罪過、そしてその反省に基づいて、日本が今何をしているか、ということのはずだ。
 そしてそう考えれば、まさに日本の新聞の、「北朝鮮」をめぐる報道のありかたに、「その実践光景が見え」てくるのではないのか。それがそうなっていない、この記事の無神経なねじれ。

 最近ずっと思っているのが、今の日本で全体主義やナショナリズム一般を批判することが、すでに十分危うい、ということ。こういうふうに使われかねないから。全体主義、と聞いて隣の国のことしか思い浮かべない人間が大勢いるのだとしたら、これからは、きちんと限定をつけなければいけない。「日本の」全体主義を批判する、と。
 北朝鮮や韓国や中国のナショナリズムにも問題はあるけれど、しかし日本のナショナリズムも・・・というような言い方を、バランスを重視する人はよくしてきたわけだが、今の状況で「バランス」を取るということは、むしろそのような前置きをやめることではないか、と思える。少なくとも私は、他国のナショナリズムのことはもう、口がすべっても言うまい、とこれを読みながら思った。あっちのナショナリズムは容認するのか、と反論されるなら、私はそれを語る立場にはない、とだけ答えればいい。北朝鮮のナショナリズムについては、北朝鮮の人々が語ればいいことだ。
 そもそも私にとってナショナリズムの危険は、他国、他民族への侵害ということもあるけれど、自国が国民を動員する際の強力なツールとなる、というところにもある。体よく駆り集められ、使い捨てられないために、自国のナショナリズムへの警戒は不可欠だ。日本に住む日本の「国民」にとって、その政策の失敗や戦争に巻き込まれ、被害を受ける可能性の最も高い危険な国家とは、まず日本ではないのか。隣接するどの国より、日本ではないのか。そうは思わないのだろうか、多くの「国民」は?
 

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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