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2012.08.05.1

 数日前、ちょっと気弱なことを古い知り合いに言ったら、こういうメールが来た。

え、と、

あなたの具合をしんぱいしてるのでメールだけ、すこし
おくります。

ごはん食べて
生きててね。

また会いたいし、
また会うから。
(決定してんの)




 で、前からふれておきたいと思っていた文章が一つある。

 例えば「尊厳ある生」っていう言い方があるでしょう? その言い方と表裏をなすものとして、こんなにしてまで生きる値打ちがあるのか、という問いがぴったりと張り付いています。「尊厳ある生」という時、「生」と「尊厳」のどちらの方に力点があるのか。そこから、「尊厳ある生」が維持できない時には、「自己決定」で「安楽死」(「尊厳死」ともいうそうです)を選ぼうという考えが簡単に導かれてしまう。冗談ではなく、安楽死法は日本でも制定されてしまうかもしれません。何しろそれこそ、究極の「自己決定・自己責任」ですからね。(中略)
 「尊厳ある生」とか言って、「尊厳」を価値として自立させたとたんに、それが「生」より大切な価値になってしまう。「尊厳」の優位が、あたかも究極の自己決定の対象として、「生」よりも崇高なことのように思われてしまう。それはおかしい、ちょっと待った、とどうして誰も言ってくれないのか、と思うんです。
 今から思えば、わたしは有吉佐和子さんって偉かったって思います。あの方が『恍惚の人』[有吉1972]を書いた時に、文芸評論家の平野謙と対談しています。あの作品は老人の恍惚振り(今なら認知症と言うそうですが)を実に克明に描いた作品で、平野謙さんが、オレは嫌だ、こんな状態になるくらいなら死にたいと、とっても「男らしい」ことをおっしゃった。それに対して、有吉さんは当時三〇代の終わりかなあ、きっぱり彼に言ったんですよね。
 「耄碌して、はたに迷惑かけても、私は生きてやろうと思います」と。おお、立派な人じゃ(笑)、って思っちゃいました。ですから、惚けて垂れ流しになってるわたしやあなたに、そのまんま生きていていいんだよと言ってあげるのが、思想の役目でなくして何なんだ、ということですよ。

――確かに有吉さんのその言葉は、深いですね。

 それに関して思うのは、池田晶子っていう女の哲学者がいますね。彼女の書いた『14歳からの哲学――考えるための教科書』[池田2003]が話題です。彼女のデビュー作って、埴谷雄高論[池田1987]なんです。
 埴谷雄高って、戦後思想最大のニヒリストですよね。日本の思想家の中でも、桁外れのニヒリスト。そんな埴谷を論じた池田さんが、あるエッセイの中でこんなことを言った。「生きるために思想はいらない。死ぬために思想はいる」。まあ、「男らしい」考えじゃありません? 埴谷のニヒリズムに丸々染まった女が、聞いた風な台詞を吐いた。わたし、それを読んで、怒り心頭に発したんです。男が言ってりゃあ、ただただ、せせら笑えるんですけどね(笑)。女が言うと許せないんですよ。本当に許せない。
 「生きるために思想はいらない」なんて断じる池田さんは、何にも分かっていない。そうではなく、「生きるための思想がなかった」ことが問題なんです。思想の多くは――すべてがそうだとは言いませんが――「死ぬための思想」だった、あるいは死ぬために機能する思想だった。保田與重郎でも革命思想でも、死ぬために機能した。それが多くの思想が現実に果たしてきた残酷な「役割」だったんです。
 だから、生きるために思想はいらないという、池田さん、あなたは人間が放っておけば動物のように生きるとでも思っているのかと、思うんですよ。それはやっぱり「男仕立ての思想」で、それにまんまと騙される賢いふりをした愚かな女がいるんだということ。



 上野千鶴子『生き延びるための思想』(2006)235-238頁より。
 まず、私が同意できないところを言っておく。それは、ここで述べられている「死ぬための思想」が「男仕立ての思想」と言い換えられ、それを言う「女」は「男」の思想に「染まった」「騙された」者、とされているところだ。そこでは無造作に「女」/「男」の二分カテゴリーが前提とされているし、特定の性別が特定の思想と必然的にむすびつくかのように言われている。さらには、その思想を自分の言葉で語る「女」の語り手の主体性を、「騙された」という見方で踏みにじってもいる。私は、そこには批判をもつ。
 それに、この発言を引きながら、発言者が上野千鶴子のような人物でなければなおいいのに、とは正直なところ、ちょっと考える。あんたに言われたかねえよ、と思ってしまうのだ。「惚けて垂れ流しになってるわたしやあなた」と言われても、当分はそうなりそうな気配もなく現状ますますさかんに言いたいことを言い散らし、たとえ今後そうなるとしてもこれまでの業績や名誉がふいになるわけでもなく、本人が自分でどう意識したところで、客観的には類まれな成功者として老いていくしかない人物の言葉であることを知れば、この発言はどうしようもなく嫌味なものにも読めてしまう。
 だが、それでも、私はこの発言の中には絶対に重要なことがあると思っている。それはやはり、

思想の多くは――すべてがそうだとは言いませんが――「死ぬための思想」だった、あるいは死ぬために機能する思想だった。


といった指摘であり、それに抗して「生きるための思想」を擁護する立場の表明だ。上野千鶴子はここで、その可能性をもつものとしてフェミニズムを語った。これに続く部分で、上野は生き延びることを負い目と感じさせるヒロイズムの問題を言い、それに対してこう言っている。

だけどわたしは、ヒロイズムは女のというか、フェミニズムの敵だとずっと思ってきました。フェミニズムって、やっぱりダサくて日常的で(笑)、「今日のように明日も生きる」ための思想なんです。


 繰り返すけれど、私は「女」というカテゴリー自体に疑いをもっており、ましてや、そこに共通の思想が簡単に成り立つとも思わない。だから、ここで言われている「今日のように明日も生きる」ための思想が、フェミニズムと呼ばれなくてもいいとは思う。ましてや、「女」の思想、などとは。(それが歴史の表舞台から排除されてきた「女」たちの目により見えやすかったという経緯は忘れてはいけないが。)しかし、この内容は重要なのだ。「今日のように明日も生きる」「ダサくて日常的」な思想、戦争が起ころうが革命が起ころうが「今日のごはん」のことをまずは考えて生きてきた、そういう生に確実に価値を見出してゆく思想が、この社会にはまだ十分にない。あると思っている人は、個人の生と日常が周囲や全体の利益のために当然のように操られ、しばしば容易に抹殺されてゆく現実を、単に、見ていない。

 そこで、はじめの話に戻る。

ごはんたべて
生きててね。

また会いたいし、
また会うから。



 読みながら何度か泣いて、つきつめれば、これだけになるのかもしれない、と思った。「ごはんたべて/生きててね」。これが相手に届くとは限らない。強く拒絶されることもあるだろう。しかし自分の立場から、一つの思想の表明として、とりあえずこういう声をかけることはできる。目の前にいる一人の人、というよりも一個の生きている身体に、そこにあってほしい、今日のように明日も、あり続けてほしい、と言ってみること。
 私自身、こういう言葉をこういうふうに投げ出すことが、なかなかできないのだ。そしてそのことによって私も、「生きるため」の言葉をなかなか語ろうとしない多くの「思想」の、被害と加害の両面を負っている。
 

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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