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2012.09.16.1

 「尊厳死」の議論で、この文章を思い出した。
 日頃から敬意をもっているシャープな書き手だが、私が特に共鳴したのはこの部分だったな、と思い出したのだ。

総合的に考慮して、裁判所が「この辺りで線を引きましょう」と判断したのであれば、わたしは仕方がないこととしてそれを受け入れる。その上で、それを尊厳死だとか安楽死だとか美化するのではなく、現実的な決断を迫られた社会による殺害として、その疚しさを社会全体で負うべきだ主張したい。



私が「尊厳死」や「死ぬ権利」の主張に抱く不快の理由も、これに重なる。というより、これを読んだ時、私の中にあった不快の理由が言語化されたように思い、それで印象に残っているのだ。

わたしは必ずしも彼女をこの先何十年も生かすべきだと主張しているわけではない。原理的に言って彼女を殺すことの正統性が社会の側にないことを認めつつも、現実的にいってそうした原則だけを無制限に尊重するべきだというだけの自信もわたしにはないんだもの。これは例えば、「財産の有無によって医療を受けられたり受けられなかったりするのはおかしい、全ての人が必要な医療を受ける権利を持つべきだ」という原則に同意しつつも、一方何百億円かかっても無制限に最高の医療を受ける権利が誰にでもあるのかというと疑問を感じるのと同じ。



 前に、「救命ボート」の話を批判する立岩真也の文章に触れたことがあったけれど、この論理ではまず、「現実的な決断」を必要とする状況設定自体を批判する。「誰かを生かすためには誰かが死なねばならないような状況」は、「実際には多くあるわけでなく、あってもなくすことができる」と。これを強調することに意義があるのは、実際問題として、財源が足りない、資源が足りない、といったことがあまりにも安易に言われ、それが現状の不公正を追認する前提としてあまりにもよく使われているからだ。その中では、まずその前提を疑え、と繰り返すことには意味がある。医療費が足りないというが、本当に足りないのか、あそこからこうやって持ってくれば足りるではないか、というように。
 しかしこの論理では、本当に足りなかったら?という「現実的」な疑問は封印される。それを問わせないこと自体が一つの「現実的」な応答だと思うのだが、そういう疑問を忘れられない人には不満の残る応答でもあるだろう。このmacska氏の文章は、そこに答えつつ、少し違った角度で「尊厳死」の発想を批判している点で私の印象に残った。
 「現実的な決断を迫られた社会による殺害」は、現にあるものだし、原則としてそれに反対するとしても、完全になくせるかどうかはわからない。どうしても、誰かを殺さざるをえないのかもしれない。だがそうならば、その「殺した」という事実を直視すべきであって、それを本人の「尊厳」や「自己決定」として美化すべきではない。この考え方に私も同意する。私が「尊厳死」という発想に感じる不快も、この欺瞞性、周囲や社会の死なせたいという欲望を隠して、あくまでも本人に「自分の望み」として語らせようとする欺瞞性にある。
 やむをえず殺すなら殺した側として、「その疚しさを社会全体で負うべき」と上の文章では言う。「疚しさ」といういくぶん湿りのある語はこの書き手には少し似合わない感じがするのだが、だから一層、私の記憶に食い込むように残ってもいる。
 

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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