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2012.09.30.2

 認知症の経験のようなものにどうも私がひかれてしかたがないというのは、いわゆる「弱者」や福祉への関心とはかなりずれている。だから、そういうものとして受け取られるのだろうな、と思うと何ともいえないもどかしさを感じる。だいたい私自身は「弱者」という語を使わないし、たとえば認知症をもつ人が絶対的に「弱者」になるとも思わない。社会の中の力関係というのは、無数の要素がからみあいつつ生じる複雑なものだ。もちろん、認知症の人々の生存や表現を保障するためには、そういう大雑把な切り分けも使いながら金や物や人手を分配していくという実務的な作業が必要なわけだし、その要求の過程では「当事者」の表現もそのために手荒く動員されていくことを免れない。水木理さんの表現のようなものもまさにそういうふうに使われつつあり、それを否定するつもりは、私にもない。
 けれど、たとえば水木理さんの書く言葉が私にとって面白いのは、それが「認知症当事者の言葉」であることとはかなり違った理由による。また、こういう受け取り方も広くあって私が共感しにくいものの一つなのだが、書き手の生き方や闘病の姿勢に「感動」を覚えるからでもない。いや、全くその手の感動がないかといえば私もそうとは言えないのだが、だからこそ、それを中心に置くような紹介や感想には警戒をもちたい。そこには常に、微妙な搾取がつきまとうからだ。それは、他人の不運を覗き見ることで自分たちの幸運を確認したいという多数者の欲望であったり、「前向きにがんばっている」姿を称賛することで「前向きにがんばらなければ」という価値観を押し付けかねない、悪気はないが十分抑圧に結びつく視線であったりする。こういう力が強く重く絡み合う場のただなかに、「認知症一期一会」の表現も投げ出されている。
 私がブログ「認知症一期一会」の言葉に目をみはるのは、端的に、そこにある言葉の形が面白いからだ。日常的に「正しい」とされる言葉の規範からこぼれ出し壊れてゆく言葉の形の、それ独特の面白さ。このブログをこういうふうに面白がる人間は多くはないかもしれないが、私は少なくとも、そういう面白がりかたで、水木理さんの書く文章を面白がっている。
 そして、これはもっと大きな話になるけれど、認知症の経験が私にとって重要に思えるのは、やはりそれが、私自身その理念をおそらく人一倍強く内面化している、思考や記憶の連続性に基づく「個人」という単位への問いかけとなっているからだと思う。この問いは本当に大きな問いで、私には簡単には答えられない、というより答えたくない問いなのだが。
 

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岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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