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2013.03.17.2

同人誌『ガーネット』69号の詩誌時評で、廿楽順治さんが私の個人誌『鋏と紐』の作品を紹介してくださっていた。限られた紙幅の中でずいぶん字数をついやしてもらっていて、なんだか申し訳ない。ありがとうございます。

で、「改行屋」と名乗るほどの廿楽さんが改行のことについて書かれているのだが、私が四行×四行でぶったぎって書いているものについては、むしろ、改行のしかたなんかあまり考えていなかったなあと思った。考えずにすむように枠を先に用意しておく、という書き方なので。ただ、用意した上で、その枠にきれいに収めようとはしない、ということは多少意識しているかもしれない。形式の区切りと内容の区切りは一致しなくていい。むしろそれがずれる時の独特の面白さというのがあって、私はそこがかなり好きなのだ。これは短歌の句またがりなんかが時として無性に魅力的にみえる、というのと同じ感覚だろう。まあそれも見慣れてしまうと「またか」という感じになってくるのだけど。

枠を置くのは、それさえ埋めればいい、と思えるからでもある。終りが見え、限りが見える。分割線もはじめから入れてある。このくらいの確かさには触れながらでないと、言葉を発するということのあまりの空虚さに、耐えられないような気がすることも多い。

2013.03.17

久しぶりにPULL.さんの作品をたどって見ていた。やっぱり好きだな私は。


 「 悲しみはない。 」


また見知らぬ誰かのために、
泣いた。
依頼主に、
何があったのかは、
知らない。
遺影と目を合わせても、
何も感じない。
泣き屋が流す涙に、
変わりがあってはならない。
それがどんなに、
悲しい死であろうともだ。

涙は、
この胸の蛇口を開けば、
いくらでも出る。
あたしは、
あたしたち泣き屋は、
そう定められ、
出来ている。



こちらより→ http://blog.livedoor.jp/pepull/archives/51073041.html
こちらからも→ http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=753

シンプルだけれど、切られた金属の「バリ」のようなものが言葉使いの端々に感じられる作品。また、そういう作品を一貫して書き続けているように見える書き手。
「それがどんなに、/悲しい死であろうともだ」がとてもよく効いている。

2013.03.14

一口に私といっても、いろいろです。

たとえば、人類なんて早くデータになっちゃって、鉛の球にでも入って(というあたりがどうもイマジネーション貧困だが)砂漠に埋まるなり宇宙空間に浮かぶなりしていたらいいんじゃないか、というようなことを日に三度くらい考えている私もいる。

今ある、個別に物としての体をもつ人間については、その一つ一つをむやみに破壊などすべきではない、とまた別の私は思っている。いや、その私はだいたいこういう言い方をしてもいない。言い直すと、むやみに人を殺すのは、まあ、できればしないほうがいいよね、とそのくらいのことを思っている。もちろんそんなことを私が考えようが考えまいが、人は殺される時は殺されるし、殺す時は殺すのだけれど。

しかし、いつの日か、人がそのような形で存在することをやめたら? 個々に区切られた有限の器を捨てて、その感じ、知り、考えてきたことを形のない情報の群としてまとめ、ただそういうものとして生きはじめるようになったとしたら? つまり、個々の「人」が文字通りにいなくなり、「人類」というそれが、実体なく存在しはじめるとしたら?

というような想像は特に珍しいものでもないのだろうけれど、でも、私にはやけに心惹かれる未来図でもある。まあ人類の滅亡までに、まず行き着けなさそうな未来ではあるけどね。ましてもう生きてしまっている私には、塵ほどのデータの一片としてすら関われそうにない転形の夢ではあるけれど。

2013.03.13

啓蟄も過ぎたらしい、ということでちょっと穴から出てみる。

自分が虫、と考えるのもおもしろいけれど、自分の中に虫がいる、と考えるのもおもしろい。

「ふさぎの虫」とか、「腹の虫」とか。「虫やしない」なんて言葉があることは、最近になって知った。小腹がすいた時にちょっと何か食べること。また、その時の食べ物。関西方言らしい。
腹の中に虫がいて鳴いたりさわいだりする、という発想がすでにおもしろいのだが、その虫に食わせてやるために食う、という発想がもう一段飛んでいておもしろい。そしておもしろいだけではなく、何か、かなり洗練された知恵のようなものを感じる言葉でもある。腹の虫との共生の知恵。棲みつかれている、から、養っている、への解釈の転換。腹の虫がうるさくさわぐなら、何か餌をやって落ち着かせればいい。そして腹の虫に餌をやることは、要するに、自分が何か食うことになるのだ。このあたりの、自己の分裂と再統合の流れ。

自分の中に棲む虫との共生は、でも、そんなにうまくいくことばかりでもないだろう。平和に飼ってやっているつもりでいても、虫たちが活発になりすぎたためにこっちの生命が削られていく、ということももちろんあるだろう。場合によっては食い殺されないとも限らない。しかしかと言って、こういう虫、目に見えて標本にできたり、薬で駆除できたりするわけでもない、ちょっとおもしろい言い回しの中にその頭をのぞかせているような虫は、腹から追い出せばそれでいいのか。あるいは、それを残らず追い出すことなど、そもそもできるのか。

私の中の虫について言うと、虫の元気と私の元気は必ず反比例するとも言えず、比例するとも言えず、なんだかよくわからない。虫は虫で勝手に動いているようで、いくら自分の中にいるとはいえ、管理しつくせる気などしない。しかしそれでも、飼っているうちに扱いに慣れてくることもある。少々うるさくても放っておけるようになることもある。まあそのくらいはないと、生きて暮らすとかやってられない。

2012.12.21.2


生んだり、増やしたりしないことの価値。
 

プロフィール

 

岩尾忍

Author:岩尾忍
1980年生れ。
2010年、詩集『箱』(ふらんす堂)。

 

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